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◆コラム.《隙間時間に読めるお気に入り本の紹介・その1》


 現在ちょっとプライベートの方がバタバタしていてなかなか読書時間も執筆時間も取れない状況なので、このコラムでは、こういう時期にぼくがどういうタイプの本を読んで読書を続けているのかご紹介しようと思う。

◆◆◆

 ぼくは以前「常に十数冊の本を同時並行で読んでいる」と言っていたのだが、これはウソでも誇張でもなく、ぼくが編みだした苦肉の策に近い読書術であった。

 ぼくがいちばん忙しかった時期は、始発に近い電車で通勤して終電で自宅に戻っていたような生活を送っていたので、とにかくゆっくりと読書する時間がとれなかった。

 平日がそんな有様だから休日もやる事が溜まっていて読書時間もとれない。

 という事でそういう時期は、通勤電車内やちょっとした隙間時間を利用して、とにかくチョコチョコ少しずつ本を読み進めていたわけである。

 そういう細切れ時間で分割、分割、分割……といった感じで読める本と言えば、長編論文なんかの類では、ぶつ切りで読むのはどうにもノリきらない。

 長編小説は、慣れれば何とか読めるようになる。
 テレビドラマだって、毎週1時間分のストーリーが進んで、続きは一週間間隔で放送されているではないか。それと似たような感じになる。
 長編小説はキリのいい所まで読んで、続きはまた来週、といった感じで少しずつ読めるようになる。

 しかし、ぼくも飽きっぽい性格のためか、一冊の小説だけを何週間も何か月も続けて読んでいると途中でダレるし、終盤で盛り上がっている所など、興が削がれてしまう事もある。

 また、小説だけでは飽き足らず、やはり学術書や一般書なんかも読みたくなる。

 そこで収集し始めたのが、今回ご紹介しようと思っている「隙間時間に読めるお気に入り本」というわけなのである。

◆◆◆

 ぼく的には「隙間時間で読める本」の条件は色々とあるが、狙い目は「一冊まるまる通読しなければならない長編」ではなく、数ページ程度の短文が集まってできている短文集である。

 例えば雑学事典や書評集、コラム集、随筆集、古典の説話集や神話集など、文芸に触れたければ短編小説集やショートショート集だけでなく句集や歌集なんかでもいい。

 順番通りに読み進める必要がなく、数ページで完結する文章を、隙間時間で何種類ずつか読むわけである。行きと帰りの電車の中でも何種類か読める。

 これによって「今日は詩を読みたい気分だな」とか、「今日は何か面白い知識がほしい」とか、「今日は頭を使いたい」みたいに気分によって、自分の手持ちの本の中から自由に種類を選んで隙間時間の内にそれ自身で完結した読書が楽しめる。

 これは以前ほど忙しくはなくなった現在も続けている習慣で、いまは通読するタイプの本をメインに読みながらも、例えば「メインに入る前のウォームアップとして軽く宇治拾遺物語の中の一挿話を読もうかな」とか「ちょっと時間があいたから、いま読んでる本と関連が深い本の一項目を呼んでおこうかな」といった形で、以前よりも柔軟な読書スタイルをとる事ができるようになったと思っている。

 という事で1冊目はこちら。

<夏井いつき『絶滅寸前季語辞典』『絶滅危急季語辞典』>

夏井いつき『絶滅寸前季語辞典』『絶滅危急季語辞典』(ちくま文庫)

 今ではほとんど使われなくなってしまった俳句の季語を集めて解説する半教養/半エッセイ的読み物。
 めちゃくちゃライトな読み口で読みやすく、教養もつくなかなかの良書。

 本書は歳時記に似た辞典形式ともなっていて、春夏秋冬の四季それぞれに、季節感がズレたために使わなくなった季語や、風習が廃れて忘れ去られた季語などを紹介し、それについて新しく夏井先生みずからが一句したため、絶滅寸前の季語に命を吹き込んでいく読み物である。

「辞典形式の読み物」というスタイルの本は、こういう「隙間時間に読む本」としてはかなり有用だ。
 どこから読み始めてもいいし、興味ある項目だけを拾い読みしてもいい。
 自分なりにテーマを決めて読む事もできれば、他に読んでいる本と関連するテーマをピックアップして読む事も出来る。
 こういう柔軟な読み方ができる点、この手の「辞典形式の読み物」は最近とても重宝しているのである。

 で、本書はさすがに「絶滅寸前季語」だけあって読み進めていくと「昔の日本にはそんな風習があったのか!」とか「昔の日本にはこんな道具があったのか!」など、様々な「忘れ去られた日本文化」に触れられてとても新鮮。語彙力もつく。

 だが、「季語を学ぶ」というのは単純にボキャブラリーを増やすという事でも、俳句の勉強になるというだけの事でもない。
 重要なのは、「日本の季節に感覚を働かせる事」なのだという事を実感させられる。
 この手の季語に関する読み物というのは、そういうものでもあるのだ。

「日本の季節に感覚を働かせる事」というものを「文学的センス」の一つとして重視しているからこそ、俳句はルールとして「季語」を入れなければならないのである。

 季語を知ると、今まで身近な周囲にありながらも意識されていなかった植物や昆虫や天気や行事などといったものに敏感になる。道端に生えている花々や雑草なのにも「気づく」ようになる。

「最近聞こえてくるあの鳥の鳴き声は何の鳥なんだろう?」という疑問がわき、今が七十二候のいつに当たるのかが分かったり、変わった形の雲を見た事から今が夏に入っている事を知る……といった風に。

 因みに、著者の夏井いつき先生は今ではTBSのバラエティ番組『プレバト!』で俳句の才能査定を担当して「俳句の先生」としてすっかり有名人になってしまった感があるが、テレビやラジオに出演して俳句の面白さを伝え、俳句の授業「句会ライブ」や高校生の俳句選手権「俳句甲子園」の運営にかかわるなど、俳句の普及活動にバリバリと活躍してきたパワフルなおばちゃんである。

『プレバト!』での夏井いつき先生

『プレバト!』では楽しい毒舌おばちゃんという印象があったのだが、夏井先生のYoutubeチャンネルを見てみた所「ああ、この人は圧倒的に人間が魅力的にできている人なんだな」と感服して、以後隠れファンとなっている状態。

 夏井先生によれば「最近、俳句の世界では、歳時記を見直そう、新しい季語を探そう、季節感のズレてしあった季語を修正しよう、古くなった季語を一掃しようといった議論がかまびすしい」のだそうだ。

 だが、時代と共に習俗が変化して使われなくなってしまった季語であっても、それをあえて使ってみる事で意外な化学反応が起こって逆に新鮮な「美」が発見できるかもしれない。
 そうなればその季語は死語になる事なく、少なくとも自分と共にしばしのあいだ延命する事ができるのではないか……という、本書はそんなコンセプトで行っている夏井先生の「絶滅寸前季語保存委員会」の活動報告でもあるのだ。

<訳・志村有弘、著根岸陳衛『耳袋の怪』>

訳・志村有弘、著根岸陳衛『耳袋の怪』(角川ソフィア文庫)

 ご紹介する2冊目は、江戸中期~後期にかけて編纂された根岸鎮衛の巷説『耳嚢』の現代語訳、『耳袋の怪』(角川ソフィア文庫版)である。

『耳嚢』は元々、江戸時代の幕臣・根岸鎮衛が公務の最中に人より聞いた話を集めた巷説集・雑話集の類のため、基本的には「実際に起きたと言う体の話」を聞き集めたものである。

 なので、庶民の風俗や逸事、教訓話などが収録されているのだが、面白いのは、それと全く同じ扱いで幽霊や妖怪が現れて人をたぶらかしたり、猫が人の言葉を喋るような奇怪な話も収録されているという事である。

 話も起承転結があるわけでもなく、何だかオチがあやふやな話があったり、怪異の正体が何か分からずにモヤモヤとした終わり方になっていたりする話もあって、そういう所が本当に奇妙だ。
――そもそもが「人から聞いた話」なのだから、そういう結末が分からないというのは大いにあるのだが、そう考えてみると、現代の良くある怪談集やコワイ話なんていうのは、随分とエンタテイメントの定型に汚染されているのではないかと思えてしまう。

 そもそも「オチ」がないと話す意味がない……というのを常に意識している語り口というのは、どこかしら「実話」の部分を歪めてしまっているのだろう。
 こういった古典の巷説集の素朴な語り口で感じるのは、現代的な語りを相対化してくれる視点の差なのである。

 そんな根岸鎮衛が集めた様々な話の中から、訳者が妖怪話や幽霊話、怪奇現象といったものを中心にピックアップして訳出したのが本書『耳袋の怪』である。

 最近は須永朝彦/編訳の『日本古典文学幻想コレクションⅠ』を読んで、日本の古典文学の現代語訳をもっと読みたいという気になっている。

 日本の古典文学に良くある説話集や本書のような巷説集といったものは、一話一話の分量はとても短くてすぐ読める上に、教養にもなって一石二鳥である(その代わり、現代語訳が付いていないと苦労する事になる)。

 特に現代ソフィア文庫はこの手の日本古典文学の現代語訳を多く出版していて、この手の「隙間時間に読める本」を集める際は狙い目である。

<牧野高吉『日本人が知らない英語のニュアンス』>

牧野高吉『日本人が知らない英語のニュアンス』(角川ソフィア文庫)

 英語のお勉強の本である。
 ぼくは学生時代から英語は苦手だったのだが、こういった「読み物として面白い本」はわりと抵抗なく読めるので、苦手克服に重宝しているのである。

 という事で三冊目は、角川ソフィア文庫の牧野高吉『日本人が知らない英語のニュアンス』。

 最近、角川ソフィア文庫が妙に好きなぼくである。

 以前ソシュールの記事で紹介した、言語学者の田中克彦が「水イコール"Water"ではない」と言っていた、まさにあの類の話が本書の内容だと思ってもらって良いだろう。

 言語は記号の違いだけではない。「概念体系」の違いでもある、という話である。
 だから、英語を勉強すると言うのは、単に単語を覚えたり翻訳方法を覚えたりという事ではなくて、「英語」という自言語とは違った概念体系を自分の頭にインストールする事でもある。

 本書では、その日本語と英語との、根本的な概念の違いを「単語」単位で「何がどうズレているのか?」というのを具体的に例示して説明してくれるという内容なのである。

 著者は「はじめに」で「日本語と英語には、一対一の対応をなす単語があまり多くないというと、驚かれる方が少なくないかもしれません」と書いている。

 田中克彦が説明していたように、日本語で「水」と言った場合と、英語で「Water」と言った場合には、内容に微妙なズレがあるのである。

 われわれが「水を持ってきて」と頼めば「冷たい飲み水」が出てくるし、「お湯を持ってきて」と言えば「暖かい飲み水」が持ってこられる。
 だが、英語では基本的に暖かいのも冷たいのもどちらも「Water」だから、「水」と「Water」を単純にイコールで結ぶ事はできない――というわけなのである。

 これもソシュール関連の記事のおさらいになるが――例えばわれわれの使っている「緑色」と、英語の「green」も、微妙に範囲が違っている。

 普通「緑」と言えば濃い緑が「緑」で明るい緑色は「黄緑」と言うが、英語ではどちらも「green」の範疇に入っている。

 その他にも、日本の伝統的な「青」という色のイメージは、「青々と茂る樹々」という表現があるように、緑に近い色までも「青」の範疇に入れる事がある。信号の「青」を思い浮かべてみても、あれは緑色に近い色をしている。
 これは中国も同じように緑に近い色まで「青」の範疇に入れる傾向があるのだという。
 それに比べて西洋で「blue」は、紫色に近い範囲までも「blue」に入る事もある。

 つまり「緑」イコール「green」ではないし、「青」イコール「blue」ではないのである。
 両者の領域は、微妙にズレており、決して完全にイコールで結べるものではないのだ。

『日本人が知らない英語のニュアンス』では、こういった日本語と英語との微妙なニュアンスの違いというものを単語ごとに分かり易く説明されていて、その「概念のズレ」の感覚が面白くてサクサク読んでしまう。そのうえ英語も学べるというのが最高だ。

 例えば、この本では最初のほうに<「行く」と「Go」は違う>という話が出てきて面白い。次のようなエピソードが紹介されている。

 アメリカ留学中のサトシはあるアメリカ人家庭に下宿していた。

 下宿のおばさんが「サトシ君、お夕飯ができましたよ」と部屋に向かって声をかけると、サトシは「I'll go soon」と返答して、それから彼は台所に向かった。

 だが、行ってみるとおばさんは夕飯を片付けていた所だったという。

 これは何故か?

「Go」は「自分(や相手)がいる場所から離れて他の場所へ行く事」を意味するからだ。

 つまり「Go」は視点や方向に関わりなく「出発の起点に重きが置かれる」のである。

 そのためサトシは「今すぐ行きます」と言ったつもりになっていたのに、彼の英語はおばさんに「今すぐ出かけます」と受け取られたわけである。

 斯様に<「行く」と「Go」>には微妙なズレがある。

 この「ズレ」が、日本語と英語との概念体系の差異なのである。
 だから、例えば英語のテストで「"Go"は日本語で何と言いますか?」の回答が「行く」では、いくぶん単純化されてしまった理解になってしまう事になるのだ。

 最近、こういった「面白い読み物でありながら、同時に英語を学べる」といった関連の本をいくつか見つけて、隙間時間で読むのがぼくのマイブームである。

 井上一馬『「マジっすかぁ?」を英語で言うと』(ちくま文庫)もなかなか面白くてお勧めだ。

井上一馬『「マジっすかぁ?」を英語で言うと』(ちくま文庫)

 ちゃんとしたビジネス的な場面での英語ならば学校で習った英語を使えたとしても、われわれが日常で頭に浮かぶ言葉というのは「マジで!?」とか「それ、ツボった!」とか「ビビった!」とかというフランクな日本語だ。
 そういった日常的なシーンで頭に浮かぶ言葉をどうやって英語に変換したらいいのか……というのを具体的な例文ごとに説明していくのが本書の内容。

 例えば「いまの、ツボにハマったよ!」は「You hit tha nail on tha head」で、直訳すれば「くぎの頭を打つ」という意味で、そこから「ツボにはまる、要点をつく」という意味になるのだそうだ。

 面白いのは「目からウロコが落ちたよ」といった場合の「目からウロコが落ちる」という表現は、元々『新約聖書』の「使徒行伝」に出てくる表現で、もともと英語表現だったのだという。

 例えば「彼女から教えて貰って目からウロコが落ちたよ」は「With her insutruction, tha scales fell from my eyes.」で、この場合は「scale」が魚のウロコの事なのだそうだ。

 こういう、フランクな日本語から英語表現を知るというのもなかなか面白い視点で、これも読み物として面白い。

 その他にもエインジェル久保『絵で分かる前置詞の使い方』(明日香出版社)なんかもこの手の面白い読み物としての英語の本としてお勧めだ。

エインジェル久保『絵で分かる前置詞の使い方』(明日香出版社)

 今後このコラムでも、この手の本は紹介していこうと思うのでこうご期待。


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