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なぜ書くのか 【「オーウェル評論集」より】
「1984」で有名な作家ジョージ・オーウェルは、人が何かを書く動機には、4つのものがあると言っています。
①純然たるエゴイズム
②美への情熱
③歴史的衝動
④政治的目的
一般的に日本では、「②美への情熱」から書いている作家が多いような気がします。
ノーベル文学賞を受賞した川端康成や三島由紀夫をはじめ、古くは西行や清少納言、兼好法師なども、「滅びの美」や「不完全なものの美」を追い求めています。
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
雨に向かひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。
徒然草にあるこの一節などは、その良い例と言えるでしょう。
しかしながら、このことは日本文学の長所であると同時に、ある意味「限界」でもあるような気がします。
川端や三島は世界的にも評価されていますが、それ以外はどうでしょうか。どうも日本人にしか理解できない「独特な美意識」の世界に拘泥するあまり、世界の人々から共感を得られていないような気がしてなりません。
その点、世界中で愛されているヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」やデュマの「三銃士」、トルストイの「戦争と平和」などは、オーウェルが言う「③歴史的衝動」と「④政治的目的」によって描かれていることがわかります。
中国の「三国志」も、歴史的な大スペクタクルと、政治がもつ非情さとリアリズムが描かれているからこそ、日本人にも熱狂的なファンが多いのではないでしょうか。
「政治的目的」に関して、オーウェルは次のように言っています。
この『政治的』はもっとも広い意味で用いる。
世界をある一定の方向に動かしたい、世の人びとが理想とする社会観を変えたいという欲望。この場合にも、なんらかな政治的偏向がまったくない本というのはありえない。芸術は政治にかかわるべきではないという主張も、それ自体が一つの政治的態度なのである。
この考え方からすれば、政治を嫌い、独特の美意識にこだわっていた小林秀雄でさえも、「極めて政治的である」と言えるでしょう。
日頃から、教えている生徒には、その学年を問わず、「世界文学を読みなさい」「世界に目を向けなさい」と言っています。
現代の小学生~高校生の多くは、「世界史」や「世界文学」を敬遠しがちです。
そこで語られている歴史や政治の中にある「非情なまでのリアリズム」に耐えられず、現実から目を背けたファンタジーの世界にいることの方を好むからです。
文学に親しみ小説を読むことが、現実逃避の手段になってしまうようでは、教育上マイナスと言えるでしょう。
ただでさえ、日本人は、現実を直視することを嫌がり、理想の世界を思い描き、厳しい現実さえも美しい言葉に置き換えてきたと言われています。
グローバリズムの時代だと声高に主張したとしても、この現実を直視しない日本人的な考え方や性質を改めていかない限り、世界に通用する人材が出てくることはないでしょう。
これは明治維新の頃から続く課題です。
安易に英語の時間を増やしたとしても、解決する問題ではありません。
現実を直視する目を養い、それに立ち向かうメンタルを育むためにも、「世界史」や「世界文学」を学ぶことは有効です。
日本的発想の殻を打ち破り、真に国際的な人となるために、幼い頃から積極的に、世界的な文学や歴史に慣れ親しむことが大切なのです。