「志」を立てることの大切さ 【王陽明『伝習録』】
書経にあるこの言葉をみてもわかるように、人の心というものは、兎角放っておくと悪い方向に流れてゆくものです。
そのような人心を正すためには、それを律する「もう一人の自分」が必要となります。
そのもう一人の自分が、則ち「志」です。
王陽明の語録である『伝習録』には、「弟に示す立志の説」という一文があります。
そこでは、「志を立てることがいかに大切なことであるか」が述べられています。
王陽明は、真実の学問をするための「志」は、「聖人になる」という志であると言っています。
学問の目的は「自らを聖人にすることである」としたのです。
しかし、それだけでは「志が立った」とは言えません。
「聖人を聖人たらしめる根拠は何なのか」ということをしっかりと把握しなければならないからです。
それは、「その心が天理に純にして、人欲がない」状態になろうという志を立てることによって実現できます。
自らが「志が立たない」状態=悪い心の状態となっていないかを知るためには、次のような心持ちに注目すると良いようです。
陽明学では、これらを総称して「人欲」と言います。
私利私欲を追求し、他人に害をなし、社会秩序やマナーを乱す心情です。
これらを悪と見做し、それを正す「もう一人の自分」は、何を目指しているのでしょうか。
陽明学では、それを「天理」としています。
これは「天に通ずる理性や合理性」のことです。
「たとえ他人が見ていなくても、天は見ている」という考え方と言えば分かりやすいでしょう。
日本人は、昔から、
「他人は見ていなくても、
お天道様は見ているぞ。
天に恥じない生き方をせよ。」
ということを美徳としてきました。
日本にやって来た他国の人たちは、車が通っていない横断歩道で、きちんと信号待ちをしている子供たちを目の当たりにして、非常に驚くそうです。
幼い時から、社会のルールをしっかりと守り、規律正しい生活をしている姿を見て、「他人が見ていなくても、天が見ていること」を信条として日々暮らしていることが理解できるからでしょう。
これは「聖人になる」ことを目的とした真実の学問をしている人の生活態度と同じです。
それをまだ幼いうちから実践している姿を見て、「ここ(日本)が次元の違う世界である」ということを実感するのです。
「天理を存し人欲を去る」というのが、陽明学の理想的な生き方です。
これを実践するだけでも立派な人生を送ることが可能となるでしょう。
かの夏目漱石は、その晩年、「則天去私」を理想の心境としていました。
「天に則り、私を去る」という境地は、陽明学の「天理を存し人欲を去る」という生き方と全く異なるところがありません。
せっかく漱石の文学に触れるのであれば、この「則天去私」の生き方を自分のものにしなければ、彼の文学を真に理解したことにはならないでしょう。
教育とは、私欲を増長させるためにあるわけではなく、天理に生きる道、すなわち「道心」を教えることが、その本質としてあります。
そして、「真実の学問をする」=「聖人になる」という「志」を立てた時、まず出来ることは、「自分だけは人欲にまみれた人間にならない」と決心することです。
そのような「自己」を確立することができれば、それだけでも立派に社会貢献していることになるでしょう。
それこそ、儒学が理想とする「修身斉家治国平天下」の第一歩である「修身」だからです。
しかし、それは並大抵のことでは実現できません。
これこそ、現代の人々にも響く素晴らしい言葉といえるでしょう。