福田恒存「悪に耐える思想」 渋谷教育学園幕張中学校 過去問対策
福田恒存は、東京大学英文科出身の評論家・劇作家・翻訳家です。渋谷幕張中では、平成28年「悪に耐える思想」(『人間の生き方、ものの考え方 学生たちへの特別講義』文藝春秋社)が出題されました。
ここで問題にされているのは「言語道具説」という考え方です。「言葉は道具なのだ、道具だから、お互いの間に通じなければならない。同時に、通じさえすればどうでもよろしいという考え方です」と述べています。(同書P13)
一般に「道具扱いする」という言い方は何か軽蔑の意味がある、と筆者は述べています。(同書P14)精神的なものではなく、物質的なもので使い捨てでいくらでもとりかえ可能だというニュアンスがあるのでしょう。
ところが筆者は「道具というものは決して物質、物ではない」と否定しています。(同書P15 )「死物ではなく生き物」であり、(同書P16)「客観的な意味ではなく、それを使う人の個人差・独立に存在し得る要素の強い、主観的な要素を非常に強くもっている」(同書P16)「客観的なものではない、というよりも自分の生命そのものである」としています。(同書P18)
道具というものは職人が何十年も使いこなせば、その人にしかわからない切れ味、タッチの差、当たり具合などが出てくるはずです。筆者も大工さんの使っていた鋸や鉈をこっそり使ってみたことがあるそうです。ところがそれがすぐにわかってしまい、狂いが生じてしまったそうです。「最良の状態をこわしてしまった」ということを述べています。(同書P15)
これは舞台俳優などにも当てはまるでしょう。シェークスピアの「ハムレット」「マクベス」「リア王」などは四百年間、何千人もの人が何万回も同じセリフを言っているはずです。
しかし、使い込まれれば使いこまれるほどセリフの微妙なニュアンスや意味合い、タイミングや間合いというものが洗練され、切れ味するどく豊潤な味をかもし出すはすです。筆者もシェークスピアの翻訳で有名な人です。「ハムレット」の翻訳演出で芸術選奨文部大臣賞を受賞しています。(昭和31年)
道具としての言葉は使いこまれれば、使いこまれるほど輝きを増し、生命が宿る、というものなのでしょう。ここで大事なのは、何百年も使いこまれている言葉の生命力ということです。道具としての生命は、同じ言葉を何百年も使うことに価値がある、というのです。
それが古典語というものなのでしょう。生命力のある輝きのある言葉は古典の中にある、という事です。古典語を知らない人は、人類が何百年も使いこんできた、切れ味と輝きのある名刀を知らない、ということです。
ヨーロッパではラテン語に相当します。カエサル・セネカ・キケロ・タキトゥス等、ラテン文学の黄金時代は古代ローマにありました。日本では漢文に当たります。漢語が古典語です。孔子・孟子・老子・荘子などです。
これら古典語の名刀が、文章の切れ味と豊かさと輝きを放つことになるのです。文章の品格・品位を醸し出す、これが古典語の力です。このようなものは短期間で促成栽培されるものではありません。10年、20年、30年といった長期間の言葉の修練鍛錬がいるのです。
人文学を学ぶ人は自らこのようなことを体得しています。若い時から意識して古典を学ぶ人は、時が経つにつれ、人間の品位と品格が輝きを増すものなのです。若いうちから古典に親しんで欲しいのは、このようなことがあるからなのです。