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サン=ピエール島の日々 【ルソーが到達した境地】

私がこれまで住んだことのある
あらゆる場所の中で、
ビアンヌ湖のまんなかにある
サン=ピエール島ほど、
本当に私を幸福にしてくれたことはない。

その幸福とは
いったいどういうものであったのか?
その楽しさは
何からきていたのか?

尊い『 無 為 ファル・ニエンテ』こそ
その快さをのこらず味わいつくしたいと願った
楽しさの第一のものであり、
主要なものであったのである。

わたしのなしたことは〝閑居〟にあった。

昼食後、
まだ人々が食卓についている間に抜け出して、
ひとりで小舟に飛び乗る。
水のおだやかな時は、
小舟を湖のまんなかまですすめ、
そこで小舟のなかで
ながながと寝そべり
目を空に向けて、
水のまにまに
ゆるやかに漂うにまかせる。
ときおり数時間というもの、
漠然とした、
しかし甘美な夢にふける。

このような境地にあって
人は何を楽しむのか?
自己の外部にある
なにものでもなく、
自分自身と自分の存在以外の
なにものでもない。
この状態がつづく限り、
人はあたかも神のように
自分だけで事たりる。

ルソー著『孤独な散歩者の夢想 他一編』山口年巨訳(旺文社文庫)第五の散歩・私の幸福

ルソーは、代表作である『社会契約論』や『エミール』を発表した頃から、危険思想を標榜する者として、官憲に追われるようになってしまいました。
『社会契約論』では、自由と平等を重んじ、特権政治を否定する立場を表明していました。
それ以上に問題視されたのは、『エミール』第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」にある理神論的で自然宗教的な内容でした。
ルソーがいた時代のフランスでは、カトリック教会を否定する思想は危険思想と看做されていました。
結果、「サヴォア人司祭の信仰告白」はパリ大学神学部から厳しく断罪され、『エミール』はパリ高等法院から焚書とされ、1762年にはルソーに対して逮捕状が出されました。
そのため、彼を追われるようにパリを脱出し、住居を点々としています。
彼が、サン=ピエール島に移り住んだのは、53歳(1765年)の頃と言われています。
しかし、ここも安住の地ではありませんでした。
村民から石を投げられ、それから逃れるようにイギリスに移住しています。
ルソーは、そのような生活の中で精神を病み、被害妄想に苦しむようになってしまいました。

彼が、『孤独な散歩者の夢想』を書き始めたのは、64歳(1776年)の頃だと言われています。
それは折しも、アメリカ独立宣言の年でした。
ルソーが著した「第五の散歩」は、フランス語散文の中で、最も美しい散文とされており、「詩人ルソーの文体の見事さを表している」と言われています。(同書、山口年臣氏による解説より)

人間の本性の善なるを信じ、「自然に帰れ」と主張したルソーは、中国の古典である『老子』や『荘子』の「無為自然」の思想を思わずにはいられませんでした。
特に『老子』の16章にある言葉が、彼の中で思い起こされていました。

虚を致すこと極まり、
静を守ること篤くす。
万物、並びおこるも、
吾は以って復るをる。

『老子』小川環樹訳註(中公文庫)

湖の真ん中で、一人、舟の中で寝そべり、何時間も 無 為 ファル・ニエンテにいたルソーは、さぞかし幸せの極致にいたのでしょう。
フランス革命に多大なる影響を与えた自著の成功や名声よりも、天地と一体となった静寂に身を任せ、湖面に漂う一人の時間の方が、余程、彼に幸福を感じさせるものだったようです。
この瞬間、ルソーは初めて本来の自分に戻ったことを実感しました。

私の魂は、しばしば、
この地上の大気圏の上に抜け出て、
遠からず
その仲間にはいりたいと念じている天上の霊に、
いまから交わりを結ぶだろう。

ルソー著『孤独な散歩者の夢想 他一編』山口年巨訳(旺文社文庫)第五の散歩・私の幸福

これこそ、ルソーの思想の到達点と言えるものなのかもしれません。


タイトル画像:ビエンヌ湖



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