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真理の水 【H・D・ソロー「市民の反抗」】

政治家や法律家は、制度の内側で生きている人たちなので、その有用性も限界的である。
一定の経験や、ことの是非を見分ける能力があっても、それは一定の範囲内に止まり、制度そのものをありのままにみることができない。

H・D・ソロー「市民の反抗」(飯田実訳・岩波文庫)P.49を要約

H・D・ソローの主張です。
これは奴隷制度に関する、政治家や立法を担う法律家の「能力の限界」を示しています。制度内に生きる者たちは、その制度の論理に基づいて発言するしかありません。そのため、制度の存在意義そのものを、根本的に問うような問題提起はできないのです。

法律家の真理は首尾一貫性コンシステンシーだけの真理であって、本物の真理ではない。
本物の真理は、それ自身の内に調和ハーモニーを持っている。

H・D・ソロー「市民の反抗」(飯田実訳・岩波文庫)筆者要約

「コンシステンシー(consistency)」=「首尾一貫性」とはどういうことでしょうか。
これは専門家同士の中だけで通用する「形式論理」のことを言います。
よく裁判官や弁護士の発言が、形式的には正しいのですが、結論の持っていき方が、市民感情にそぐわないと感じることがあります。
彼らは、それを「リーガルマインド」と称しているのですが、これこそ、まさに詭弁と呼べるものかもしれません。
はじめに結論ありきで、仲間内で通用する価値観で理論武装しているだけだからです。
その結論は、一見正しいように見えても、そこに真実はありません。
彼らの保身から導き出されたものであり、立場を守ろうとする意図を感じてしまいます。
「コンシステンシー」とは、「形式論理の一貫性」のことを言っているだけです。そこには、真理は存在しません。それは数式のようなもので、それ自体には何の価値もなく、一種の「論理遊び」「ゲーム」のようなものと言えるでしょう。

では、「本物の真理は、それ自身の内に調和ハーモニーを持っている」とは、どういうことでしょうか。
それを考えるヒントは、H・D・ソローが「真理の水」という比喩を使っている部分にあるような気がします。

真理というものは、流れる水のようなもので、必ず「純粋な源泉」というものがある。所詮、聖書や憲法というものも、その流れの途中にあるもので、純粋な源泉そのものではない。

H・D・ソロー「市民の反抗」(飯田実訳・岩波文庫)筆者要約

彼の例えを借りれば、法制度は、憲法よりも下流にあるものと言えるでしょう。中でも、奴隷制度といった非人道的な法制度は、下流にたまったゴミのような存在と言ってもよいかもしれません。

それでは「純粋な源泉」とは、何を指しているのでしょう。
彼の著書「森の生活(ウォールデン)」などを見ると、人の「神性」や、内なる「霊性」といったものに、最も価値をおいていることがわかります。
ソローは、「divinity(神性)」や「Genius(霊性)」などが、人に高い生活をもたらすと言っています。(『森の生活(ウォールデン)』「住んだ場所、住んだ目的」より)

市民感情は、市民生活の中ではぐくまれます。
当たり前の日常生活で、人が本来もっている内なる霊性や神性が光り輝くのです。
ソローが、ウォールデン湖の畔に小屋を建て、一人で自らの内にある「霊性や神性の輝き」と、「外の自然の中に溢れる光の煌めき」との調和の中で、静謐な霊的内省生活を送ったのも、このような理由からでしょう。
本物の真理は、国会議事堂や裁判所などではなく、ありきたりな日常生活の中にこそあるのです。

タイトル画像(出典:「Walden Pond, 2010」by ptwo from Allahabad, India)


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