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古典や聖典を読む意味 【H・D・ソロー『森の生活』】

人類の叡智の記録である古代の古典や聖典ともなると、
その気になれば誰でも簡単に入手できるのに、
それらに親しもうとするわずかな努力さえ、
どこにも見られない。
(中略)
ここには古代のもっとも賢いひとびとが口にし、
その後あらゆる時代の賢人たちが、
その価値を保証してきた黄金の言葉があるのだ。
ところが、われわれは
『やさしい読み物』とか初等読本をはじめ、
小学校の教科書程度のものしか読めないし、
学校を卒業したあとは、
子供と初心者向きの『小読み物Little Reading』や
物語本などを読んでいる。
だからわれわれの読書、会話、思索は、
すべて小人族や一寸法師程度の
まったく低い次元に留まっている。

H・D・ソロー著『森の生活』(上)飯田実訳P.190~191

ソローにとって、聖典とはキリスト教の聖書バイブルだけではありません。
・儒教・・・『論語』『孟子』『大学』『中庸』
・ヒンズー教・・・ヴェーダやバガヴァッド・ギーター
・ゾロアスター教・・・アヴェスター
など実に多岐にわたります。
人間の生と死をみつめる深い思索と哲学は、このような人類の叡智の記録である「聖典」でなければ、満足のいく答えを得ることもままならないでしょう。
子供の読み物のような『小読み物Little Reading』をいくら読んでも、そのうち満足できなくなる時期を迎えることになるのです。
50歳を超える年頃になった時、明るく前向きに、夢と希望をもって毎日を過ごしているのかは、とても大切なことです。
歳をとれば、体力的にも肉体的にも、若い頃のようにはいかなくなります。
世間は、そんな「年寄り」たちに寄り添ってくれるほど、優しくありません。
現代の日本では、人口の4割ほどが高齢者です。
ある団地では、住民の高齢化が進み、孤独死が増えてしまったことから、声かけなどをして見回りをするようになりました。
80歳の男性が発起人なのですが、団地のお年寄りたちに「希望は何か?」というアンケートをしたところ、70%が「早く死にたい」と答えたそうです。
これが今の日本の現実なのです。

歳をとれば、子供も独り立ちし、連れ合いが亡くなるなどして、誰のもとにも「孤独」が訪れます。
そんな時、「どのように一日を送っていくのか」が問われることになるわけですが、たとえ一人であったとしても、古典や聖典を読むことを生きがいとしている人は、幸福な老後を送っていると言えるかもしれません。

50を過ぎた今、「あと30年をどうやって生きていくのか」を日々考えています。
つまらない本は目にするのも苦痛なので、どんどん古本屋で売却するなどして、処分するようにしています。
おそらく自分にとって、これからを生きる為に救いとなるのは、『論語』と禅語でしょう。
禅語の中でも、一生読み続けるのに値するものは、『臨済録』『無門関』『碧巌録』です。
この3冊は、岩波文庫で簡単に手に入れることができます。
ギリシャ・ローマの古典では、プラトンの『パイドン』だけで十分です。
これは「魂の不死」を説いているものだからです。

人類にとって、長い年月の中でも淘汰されずに残ってきた「古代の古典」や「聖典」は、人生最期の時にこそ相応しいものと言えます。
若い時から、積極的にこのような書物に触れ、読み続けていれば、おのずら答えが得られるでしょう。
そこに出てくる聖者や賢者たちによる珠玉の言葉は、決して裏切りません。
わからないことがあった時、人に聞くのも良いですが、それよりも確実なのは、人類の叡智が結集している古典や聖典にあたることです。
これができる人が、本当の意味で、独立自尊の人生を歩んでいると言えるのかもしれません。


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