不睹不聞の学 【秋は読書の季節:王陽明に学ぶ】
紅葉が照り輝く季節。
澄み渡った空気のためか、光沢の明度がくっきりとしており、とても鮮やかな色合いで私たちを楽しませてくれます。
しかし、こういう時だからこそ、目に見える美しいものだけでなく、目に見えない真実の世界にも心を向けて、静かな一時を過ごす時間を持ちたいものです。
深遠なる真理は、美しい自然の中だけにあるものではありません。
尊い先人たちの煌めくような業績の中にも、無数に鏤められています。
人類の文化遺産は銀河の星々のごとく、今もなお私たちにその輝きを見せてくれています。
それらに触れるための最も良い方法の一つが「読書」といえるでしょう。
自然がその輝きを増す秋こそ、読書に時間を割くべきなのかもしれません。
宇宙の真理が声高に我々に語りかけてくれる季節でもあるからです。
中国の古典の一つである『中庸』には、目に見えない、耳に聞こえない世界を問題にしている箇所があります。
陽明学では、これを「不睹不聞の学」として特別に扱っています。
目にも見えず、耳にも聞こえない世界を反省し改めようとすることは、自己修養の糧となるからです。
もともと儒学では、
という言葉あるように、「礼」の無い言い方をしたり、「礼」の無いものは耳にしたりすることもいけないという教えがあります。
陽明学では、これを更に一歩推し進めて、人が言葉を発する前の世界=「未発の中」を問題としました。
言葉を発する前の心の世界に、もう既に反省すべき過ちがあるのではないかと考えるのです。
この「戒慎恐懼」という考え方には、「悪事はどんなに隠していても、いつかは露見するものである」という価値観が根底にあります。
「隠れたるより見るるは莫し」という、心に思うだけで悪事は現実化するという哲学です。
それ故に、陽明学は「心学」と言われてきました。
儒学には、「修身斉家治国平天下」という一つの理想があります。(『大学』参照)
それを先ほどの陽明学の考え方に当てはめると、ひとりの人の目に見えない世界の悪事がいつか現実化して、社会の乱れや国家動乱の原因になるという結論になります。人心の乱れが、ひいては国家の乱れに繋がってしまうのです。
美しい言葉でいくら飾ったとしても、心中の悪事をごまかすことはできません。そのことは、自分が一番良く知っていることです。
「信言は美ならず、美言は信ならず」と言った老子ほど、他人の言葉を信用していないわけではないですが、美しい言葉とは一定の距離を置くようにするのは一つの処世術と言えるかもしれません。
煌々と輝くように色づく紅葉を目の当たりにして、
自分もこのように心の底から美しい存在でありたいものだと、
つい考えてしまうのです。