大西書評堂 #1 「幽霊たち」と「中空」
ポール・オースター「幽霊たち」(柴田元幸訳)
・あらすじ
ブルックリンの私立探偵のブルーは謎の人ホワイトからの依頼でブラックという人物を監視することとなる。ブラックを見張り、週に一度報告書を送る仕事だ。道路を隔てた真向かいの一室から監視を続けるブルーだが、ブラックは紙に向かって何かを書き綴るのみで、いっこう行動を起こさない。困惑しながらも監視、そして報告を続けるブルーだったが、それでもブラックは向かいの部屋で書き物をしているのみ。あまりにも長い時間とともにブルーの目的は混濁していき、この状況を打破するため、次第に突飛な行動を起こすようになる。ブラックに接近するブルーは、やがてブラックが自分の監視に気が付いていると悟る。しかし、その事実はブルーにさらなる混乱を呼んだだけであり、ついにブルーは監視の役目を捨て、ブラックの部屋に侵入する。そして紙束を盗み出し、自室に戻って目を通す。その紙束は、ブルーが毎週機械のように書き上げてきた簡素な報告書の山だった。
狂気のふちで、ブルーは監視の役目を捨て、堕落した生活を送る。が、ブラックがこちらの異変に気付いたとわかり、ブルーは彼と対面することを選ぶ。監視を続ける永遠のような時間のなかでブルーはブラックのすべてを理解していたのだ。二人はブラックの部屋で出会い、ブルーはブラックに友好を申し出る。が、それは拒否され、結末はブルーの限りない暴力となる。ブラックの生死もわからない状況で、ブルーは机の上の新たな紙束を持って自室に帰る。それまでの監視と同じように机に向かい、文字を目で追っていく。そして、すべてを読み終えたブルーは、その小さな自室から去っていく。
・感想
これまで僕が読んできた本のなかでも群を抜いて新感覚だった。きわめて面白く、しかし、なぜ面白いのかさっぱりわからない。不意に部屋に僕だけが取り残され、ブルーの行方やブラックのその後もわからない。しかし、この両手は「幽霊たち」の本を確かに握っていて、心はざわついている。眩暈を覚えている。
訳者あとがきで柴田元幸が語っていたように、この小説では何も起こらない。ひとつも。
――何も起こらない、つまり雪原のような文章の内側で、「どこでもない場所」に誘われた人物が「誰でもない人間」に変質していく。ひどく奇妙な小説だ。読後には、脳のずっと奥のところから不安と興奮がにじみ出てくる。
・おもしろさ
すごくおもしろい。作中にでてきた「ウェイクフィールド」という短編も、すごくおもしろい。
フランク・コンロイ「中空」(橋本安央訳)
・あらすじ
六歳のショーンは学校から父親によって連れ出されたあと、腕を取られ、なかば引きずられるかっこうで帰宅した。姉も一緒だったが、久しぶりに会う父親と距離をつかめずにいた。家につくと鍵がないことがわかる。父は興奮した様子で昇降口をのぼっていき、屋根から続く、その窓のところから侵入する。子供たちも困惑しながら続く。父は朗読をするかと思えば窓ふきをし、あるときには急にがなり散らす。きょうだいがおびえているとドアの向こうから声がする。途端に父は二人をつかみあげ、窓辺に立つ。ドアが蹴破られる。父親は喚き散らしている。ショーンは中空からずっと下のほうの、その歩道のタイルを見つめている。自分が漏らしていることに気づく。
それからショーンは忘れてしまう。記憶喪失をしてしまう。父のことも、事件のことも忘れてしまう。過去から隔たれた地点でショーンは生きていく。大学に行き、結婚し、子供をもうける。作家になろうとするが、すぐうまくはいかない。ある夜には初恋の相手のもとを、酔いのさなかで訪れる。が、彼女はいない。ショーンはノックをする。蹴破ろうと試みる。それから彼は思いつき、昇降口をのぼっていく。しかし、屋根の上まで来ると冷静さを取り戻し、すごすご帰っていく。
妻とともに招待されたディナーの席で、子供の落下事故を聞かされ、彼は青ざめてしまう。急いで帰り、夜の部屋で子供を見る。彼らはすやすや眠っている。そして、そうしていると、ショーンは意欲が湧いてくることがわかる。子供たちの存在によって自分が高められているとわかる。不明瞭な自分の過去について書こう。夜の子供部屋でそう思う。
二年後、ショーンと妻は別れることになる。ショーンはそのことで頭がいっぱいになっている。帰宅すると、いつものように子供部屋へ向かうが、踊り場で泣いてしまう。子供部屋ではひとりが起きていて、ショーンに向かって「どうして泣いていたの?」と訊く。ショーンは動揺するが、なんとかやり過ごし、子供をまた眠らせる。ショーンは子の存在が自分の人生と強く重なってしまっているように感じる。
四十台後半になり、彼は協会から仕事を任されている。素晴らしい仕事だ。大学での講義を終えると、飛行機に乗り、タクシーに乗り、指定のビルに向かう。飛行機は、高さのために息苦しさを覚えていたが、それでも少しずつましになってきていた。なぜ自分が高所恐怖症なのかはまだわかっていなかった。ビルにつき、エレベーターに乗り込むと、ショーンは手前の青年が息子であると思う。しかし、そんなことはありえないのだ。長いことあっていない息子は大学で授業を受けているのだ。たまたま息子と同じような年ごろというだけなのだ。と、そのとき、エレベーターが止まる。青年は動揺し、ショーンを見る。少しエレベーターが落下する。青年はいまにも叫び出しそうになる。ショーンは「大丈夫だ」と言う。青年は取り乱していたが、ショーンが頭を抱きかかえてやり、「大丈夫だ」と優しくささやいてやると落ち着いてくる。落下は終わり、ドアが開くと、青年は素早くそこから飛び出た。「こっちに来いよ!」と青年が呼び掛けるも、「私の階はまだ上だからね」とほほ笑んで言い、ショーンはそのまま上に向かう。そしてそのとき、その瞬間にショーンは過去のすべてを思い出す。
・感想
あらすじをまとめようとすると、徹底的に無駄を排した、完璧な作品であるとわかった。簡素ながらも意外な展開で読者の興味を決して放さず、それでいて複雑な心情を表現し得ている。やれやれ。まったく、どうしたらこのようなものが書けてしまうのだろう?
また、あらすじではあまり書けなかったが、作品ではショーンの不安定なさまが強く押し出されている。しかし、この小説はそんなショーンを裏切らずとことん付き合い、彼が自分の過去を完全に乗り越えるまでを克明に描ききっている。最後のシーンには読者ショーンの心に立ち入り、彼と時を同じくして青年を優しく抱いてやっている。心の満たされる作品であるとともに、過去の呪縛というものが巧みに表現された作品でもある。
・音楽
スティーヴィー・ワンダーの「回想」もかなり素敵だ。
次回は村上春樹「アイロンのある風景」と、森鴎外の「寒山拾得」をお送りする予定です。きぶん次第ではもちろん変わります。
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