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雑記95 ゴッホ書簡の読書メモ、全集2巻 p500〜 "きみには何かしらんべらぼうにすぐれた独創的な知性みたいなものがあるよ"

雑記95 ゴッホ書簡の読書メモ、全集2巻 p500〜 "きみには何かしらんべらぼうにすぐれた独創的な知性みたいなものがあるよ"


文字数4700




いつものことで恐縮だが、雑然とした文面になっていると思う。
自分の学習のために記述したものである。


ゴッホ書簡全集は「極めてすぐれた」書物だと自分は常々思っている。
時々開くが、その都度、宝の山だと感じる。

最近友人とゴッホの話をした。
自分が話した内容が相手にうまく伝わったかわからないが、ともかくもそれがきっかけになって、改めてゴッホ書簡を読もうという機運が自分の中にわいてきている。


ゴッホの書簡といえば、弟テオへの「お金を貸してくれ」という再三の要求について言及する声をよく聞くが、そうしたものに気を配らずに読んだ方がいい。







ゴッホ書簡2巻から

ページ500〜600をパラパラめくり、目に留まった内容を書き留めていく。
範囲を限定することで、自分としては活気が出やすく感じる。

しばらくの間はそこから出ないようにする。




p554
ゴッホはゾラの作中の マダム・フランソワを持ち出して弟に話す。
手紙番号219  ハーグにて、1882年。

シーン(女性)の話が盛んにされている。
シーンとゴッホは懇意になっているが、シーンには既に子供がいて、弟はそれを初めて聞いて、ネガティブな反応をしているようである。




p550にて、テルステーフの名前が出る。
手紙219   p550

引用
「テルステーフは、ぼくには何もやれないし、何をやらせてもうまくないという固定観念から出発するのがつねだ。ぼくは彼自身の口からそれを聞いた。」





手紙217でも テルステーフの名前が出る。

引用
「この冬きみはぼくの仕事について、たとえばヘイエルダールから、テルステーフの考えているのよりはもっといいことをいろいろ聞いた。ぼくは今、自分の仕事に対してあらたな活気を感じている。」




引用
p548  手紙218
「人物のばあいにも風景のばあいにも、ぼくは感情的なメランコリーではなくて、真剣な悲しみを描いてみたいところなのだ。
要するにぼくは自分が進歩をして、ぼくの作品について人から、彼の感じ方は深い、彼の感じ方は鋭敏だと言われるようになりたいのだ」




手紙212   p521  には 前に自分がひいた鉛筆の線がある。
数行にわたって(12行くらい) 線がひかれている。




手紙212   p521
引用
「ほんものの陣痛や生みの苦しみは、きみが叙述を手放すところから始まる。でもきみには何かしらん べらぼうにすぐれた独創的な知性みたいなものがあるよ。今のところでは、きみはこの点について自分自身に信頼がおけないものだから、これ以上には進めないのだ。」




自分はこの言葉を、ある友人に紹介したいつもりで前に線をひいたような気がしている。
ゴッホは弟のテオに対してこんな言葉を投げているが、お世辞ではないだろうと自分は思う。

自身の芸術的感性を自分自身で「大したことのないものだ」と過小評価するケースは割に多いように自分は周りを見渡して思うのだが、そうした状況に絡めて自分は今この引用した言葉のことを考えている。

身近な友人にメールマガジン的に、ゴッホ書簡の中の「これは」と思った文面を引用して、自分のコメントを付記して、定期的に送ろうかということを今考えている。




p521   のように、自分が昔、線引きをした箇所を忘れていることがある。
時々見返したい。

それにしても、ゴッホ書簡全集における手紙番号は、gutenbergプロジェクトなどの英語版や、他のフランス語版の手紙においても、共通したものなのだろうか。





ゴッホ書簡全集の 2巻の
p672〜673 あたりで
1882年と  1883年の 区切りがくる。

2巻は 1882年と 1883年のみ掲載。
舞台は オランダのハーグのみ。




ゴッホの生涯の 時系列を整理し、把握していきたい。




p555   手紙219
引用
「追伸。ゾラのものは、できるだけ読みたまえ。それは誰にもためになって、問題をはっきりさせてくれる。」


ゾラの本を自分はほとんど読んだことがない。
触れていきたい。
ゴッホは他にもあれこれ作家や文章作品について触れている。
それらについて、より広く把握したい。






少し長いが、上記に引用したp521   手紙212  の中の気になるところを思い切って長く引用する。
400文字弱ほどだろうか。


引用    p521   手紙212


それからもうひとつ。きみの短い叙述には「色彩」がある。その色彩がぼくには触れることも見ることもできる。きみは自分の印象を、それがもっと強力な形像を身につけてどんな人間にもはっきりと触れられ見られるようになるところまでは、持って行っていないけどね。ほんものの陣痛や生みの苦しみは、きみが叙述を手放すところから始まる。でもきみには何かしらんべらぼうにすぐれた独創的な知性みたいなものがあるよ。今のところでは、きみはこの点について自分自身に信頼がおけないものだから、これ以上には進めないのだ。でなかったらきみは溝を飛び越えて、つまり、もっと危険をおかしてみていることだろう。だがそれはそれでおくとしょう。きみの叙述には、何かしらいわく言いがたいものがある。…(中略)… 言葉による素描もやはりひとつの芸術だというこもが判るかい?この芸術は時として、まどろんでいる隠れた力をあらわにして見せる。






自分のメモ
「きみが叙述を手放すところから始まる」という言葉が自分の頭に引っかかる。
小林秀雄は作家からすると画家は急に、ひとっ飛びに考えが飛ぶようなところがある、そうした性質は文章作家的な考えの推し進め方とずいぶん違うものに感じる、ということをどこかに書いていたように思う。
どこだったかは思い出せない。梅原龍三郎との対談か他の人との対談の中か。それとも文章の中だったか。しかし、どこかに書いていた。

思いがけない飛躍をして急に問題の急所を捉えるということが画家にある、という。
将棋で言うと画家は桂馬のようなものか、などと素人考えに自分は今思ったりしている。
桂馬は将棋の駒の中で唯一、移動の軌道上に相手の駒があっても飛び越えて、ワープみたいなことができる。
飛車や角、香車の移動能力は高いが、桂馬のようなワープ的な移動はできない。




自分が惜しく思うのは、ゴッホ兄の手紙は残っているが、弟テオの方の手紙は残っていないことである。
(知らないだけで多少何か痕跡が残っていたりするのだろうか?)
テオの手紙がどんなものだったのか想像してみることは興味深いことに感じる。

小林秀雄の文章から知ったことで、(その情報源は円地文子のようだが、) 本居宣長は源氏物語を愛読していたようだが、愛読のあまり、源氏物語の一部に挿入できるような、章と章の間にはさまるような箇所にあたる部分を、自分で二次創作的に創作して書いていたらしい。


自分は今うろ覚えで、それは、原典で省かれている源氏君が亡くなった章の詳細か?と思ったりしているが、違うかもしれない。
確かめたい。
問題は、宣長が源氏愛読のあまり、スピンオフ的に源氏の二次創作をしていたということで、自分はその話を出発点に、ゴッホ書簡の愛読の延長として、弟テオの側の手紙の二次創作を想像の力で作っていく、という仕事を誰かやったらいい、ということを思っている。


上に、ゴッホ兄の手紙219〜220あたりをたとえば引用したが、手紙219に対する弟テオの手紙  (たとえばこれを手紙219.5と呼んでもいいし、手紙219bと呼んでもいい。219.5または219b に対し、後にゴッホ兄によって220が書かれることになる。)   を、手紙219の熟読吟味によって想像し、このような内容ではないか、と模擬的に作成してみることは自分としては面白い試みになるのではないか、と素人考えに思っている。


それによって別に今、存在しないパーツを埋めていく、ということを目指すのではなく、研究に値する価値ある文献に対して、あらゆる接近法を試していくことで、興味を持続することができそうに思い、その一環としてこんなことを書いている。



それにしても、ゴッホ書簡を読むうちに、ゴッホのゾラやバルザックなどの作品への感想に感心し、こうした文学作品に触れている箇所を網羅的にノートを作って把握したい欲求にかられている。
情けないことに、本の整理の不手際から、ゴッホ書簡全集の各巻が家の各地に散らばり、手元にパッと見つけることができていない。
まずは、漫画 犬夜叉がシコンのかけらを集める旅に出たように、自分も本の乱雑に集まった固まり?の中から、数冊のゴッホ書簡全集の各巻を集める短い旅に出ないといけない。


ゴッホは、テルステーフを嫌っている。テルステーフもゴッホを嫌っているのだろう。
書簡全集2巻で、テルステーフのことなど考えても無意味なのだ、といいつつ、連続する書簡の中でテルステーフの名前は何度も出てくる。

マウフェとの関係が芳しくなくなっているのも、そのかげにテルステーフがいるのでは、とゴッホは疑っているようである。(もう少しちゃんと確かめないといけないか)
テルステーフは一体、書簡全集の何巻くらいまで存在感を発揮しているのだろうか。
今、手元にある2巻は1882〜1883の書簡が載っている。

ゴッホの年表など、よく世にいう虫の目・鳥の目的な区分で言えば、鳥の目的な方向で、把握していきたい。


のだめカンタービレでは、音楽家の生涯のおおまかな年表などの把握(作品の具体的な理解ではない)  を「アナリゼ」と呼んでいた気がする。
これは、のだめがフランスの音楽アカデミーに行くと、モーツァルトについて学ぶことになり、その時に出てきた言葉だった。

のだめと友人になった少年リュカはモーツァルトの生涯について、のだめに教会の演奏を聞きながら話したが、そうしたリュカが のだめに話したモーツァルトの生涯の概要・あらすじ・概略は、思うに「アナリゼ」(英語のアナライズ analyze 日本語で言うと分析?)  にあたるものと思うが、
自分もゴッホといえば、その書簡集ばかり読んでいるが、たまにはもう少しこのアナリゼ的な、概略の把握をした方がいいのかもしれないとも思う。


本当はゴッホの書簡を読みつつ、絵も見れたら、とも思うのだが、色々なハードルがあって難しく感じるため、当面は書簡を読むことにエネルギーを注ぎたい。


というより、どうも自分は絵画を鑑賞して、心底の感動を覚えた経験がない。
鑑賞経験自体が少ないのだが、もし絵画における鑑賞の感動の経験があったら、上記に挙げたハードルなど、どうにかして乗り越えて、どうにかして何かしら鑑賞にこぎつけようとすると思う。


文章においては、心底の感動の経験があるように自分では思っていて、その度合いは甚だ強く、そのために、本を味読する時間をどうにか捻出しようとし、入手の難しい本について身近な人に「〜という本が自分は喉から手が出るほどにほしい」などとこぼしたりする。
喉から手が出るほどに、というのは、ものの例えの表現ではあるが、自分としては誇張ではない。切実さが自分にそう言わせるのである。
そして、その切実さは、文章の味読の中で味わった心底の感動の経験による自分の内部の震えからきている。


絵画において、自分はそうしたことを経験したことがない。
それだから自分は絵画鑑賞や展覧に足を運ぶことに対して、熱心な人間に比較して冷淡、または淡白でいられる。
自分の内部を揺さぶるような何か強いエネルギーに、絵画の展覧において巡り合うことができたらいいな、という憧れみたいなものを持っている。



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