topic 03 著作権ノート3 ウィキソース wiki sourceについて
■ウィキソース wiki source について。日本語の古文原文などのパブリックドメイン資料を掲載している。
ページ下部に、ウィキソース のリンクを掲載する。
ウィキソース wiki source は、日本語資料のパブリックドメイン、フリーコンテント(サイト内でそう呼称している。)を 多く掲載しているWEBサイトである。
説明によると、Wikipediaの姉妹サイト、姉妹プロジェクトとのことである。
パブリックドメイン作品の掲載という点で、青空文庫も共通した性質を持っているが、品揃えが異なる。
青空文庫には、源氏物語の与謝野晶子による現代語訳版のみが掲載されているが、
ウィキソース には、源氏物語の原文が掲載されている。
青空文庫に掲載されている竹取物語は和田万吉によって訳されているが、
ウィキソース の掲載のものは原文と思われる。
ウィキソース の、トップページの「資料を探す」の 最下部に (次の項目にあたる「新しい資料」のすぐ上に) 、
カテゴリ:作者
カテゴリ:作品
という項目がある。知らないとちょっと見つけづらいが、その2つのページが筆者としては、使いやすい。
(この2項目をもっと、大きく目立つように表示した方が筆者は良いように感じる。
また、この2項目を、スマホ表示画面の左上アイコンを押した時のメニューに追加した方がサイトの使い勝手が良くなるように筆者は感じる。)
■筆者として気になった掲載作品を列挙する。
(中世〜近世編)
時系列などの順番はバラバラに以下記載している。
松尾芭蕉 芭蕉俳句全集(これは嬉しい) (ちなみに奥の細道と、あともう一つ作品が収録されている。)
本居宣長 「なおびのみたま」(漢字で掲載されているが、正しい漢字が今出てこない。)
蓮如
中江藤樹 (一つのみの掲載。ここが豊富だと嬉しいのだが…)
太田牛一 信長公記 (これは嬉しい)
織田信長
豊臣秀吉
新井白石
太田道灌
筆者コメント:
太田牛一による信長公記は前から気になっていたので、ウィキソース にて閲覧できることを知ったのは有り難かった。
芭蕉の俳句全集も有り難い。
宮本武蔵は、獨行道(どっこうどう、すごく短い) のみが掲載されており、五輪書の掲載がない点が惜しく感じられた。(五輪書もそう長くはないのだが。)
・その他
徒然草
平家物語
源氏物語
平治物語
保元物語
(ちょっときりがないので、ほどほどで止める…)
・掲載なし、と思われるもの
荻生徂徠
熊沢蕃山
賀茂真淵
・気になっているが確認していないもの
契沖(も多分、掲載なし?)
■ウィキソース 作品名、で検索すると簡単に見つけられる
サイト内から探し出す必要性はさほど高くなく、
「徒然草 ウィキソース 」 などで Google検索などすると、容易に該当ページを見つけることができる。
徒然草のような古い文章だと、文字の判読性の問題や、原本を写した第二次原本的なものの枝分かれによって、複数の「原文」が存在するようになっているものが多い。
「徒然草 ウィキソース 」で検索し、ページに入ると、ページの下部に、2つの「原文」のどちらを選択するかを選ぶ必要がある。
徒然草 ウィキソース の、 2つの原文のうち、一つ目は一つ一つの段に、段の番号が割り振られている。
二つ目は、段に番号が割り振られていない。
「原文」ごとに、可読性の違いを感じることがある。
■筆者の小言、日本語の断絶、江戸期までと明治期以降、欧米との比較
色々見聞を元に、筆者の勝手な見解を大雑把に述べると、
日本語は、江戸期末期までと、明治期以降とで、かなり違うものになっている。
井上ひさしによる脚本を元にしたと思われる「国語元年」というテレビドラマを昔見たことがある。
明治初期が舞台ということで、おそらく1870年代〜1890年代くらいの日本語の大きな改変事業をテーマにしているようである。
他にも色々要因はあると思うが、こうした「日本語改変」によって明治期以降の日本語はそれまでのものと大きく変わったようである。
それによって、江戸期以前の人間の文章を、「現代日本語」に慣れた人間は、「現代語訳無しにするする読めるもの」「なじみやすいもの、特に工夫や労力なく自然と親しめるもの」と感じることが多少難しくなっているように筆者には感じられる。
日本の江戸期(例えば1610年代から1868年頃)の学者・文章家の文章の書物化されたものは、
「現代の人間」による校註作業 を多くの場合、改めて受けている。
(校註作業とは、判読に迷う文字の確定作業(校)や理解しやすいように説明をつける作業(註)を指すと筆者は認識している。) (校註↔︎校注)
(「現代の人間」とは、この場合、1970年時点でその多くが没しておらず、著作権が長く存続していく人間を指す。)
校註者の没年が1980年代ならばパブリックドメイン化は2050年代となり、
校註者よ没年が2000年代ならはパブリックドメイン化は2070年代となる。
江戸期の学者の、中江藤樹、荻生徂徠、熊沢蕃山、本居宣長、賀茂真淵、契沖、などの原文がパブリックドメインとして、豊富に、フリーコンテンツとして閲覧することができる状況は、数十年以上の時の経過を待たなければ期待することが難しいのか、と筆者は感じることがある。
(中江藤樹はウィキソース に、一つのみ、作品が掲載されている。豊富とは言えない状況である。)
(ちなみに、1920年代出版の 中江藤樹の本を筆者は以前閲覧したことがあるが、確認したところ、それは校註者の没年から年月が経過していて、パブリックドメイン化していると考えて良さそうであった。)
(1970年代以降の本は、それ以前のものと比較して経年と紙質の問題から状態が良く感じる。そのため、筆者は、1960年代前半以前の本を敬遠してきたが、そうした1965年以前の本を物色してみると、校註者の没年からすでに50〜70年が経過していてパブリックドメイン化した書物を多く見つけることができるのかもしれない。)
(興味のある人だけお金を払って日本の昔の人の文章を読めばいいのでは、という声も自分の心の中で考えはするが…。
例えば荻生徂徠の文章の原文を一冊入手するのに2000円以上かかる。下記のデカルトの文章の原文は、無料で閲覧できる。その国の過去の優れた学者の資料に触れるハードルが、日本と欧米で異なっている。)
欧米において、そうした母国語の断絶というものは、日本ほど激しくは起こっていないように感じる。
プロジェクトグーテンベルグには、欧米の中世の人間の著した原文が豊富に掲載されている。
古代だと、プラトン、アリステレス、プルターク、トゥキディデス、カエサル、
中世ならば、デカルト、パスカル、モンテーニュ 、など。
この中世の部分、デカルト、パスカル、モンテーニュ にあたる部分が日本のパブリックドメイン界・フリーコンテンツ界においてごっそり歯抜けのように抜けてしまっているのは惜しく感じられる。
欧米の過去の優れた著作家の文章の原文のアクセス性の良さに筆者としては羨望を感じることがある。
しかし、書いていて、宮本武蔵の「五輪書」を仮に文字起こしすることは「長めの短距離走」や「中距離走」のような気合いで事足りそうだが、
例えば、荻生徂徠の「弁道」、「弁明」の文字起こしをすることは「超長距離走」のような感じがして、ちょっとあまりにも恐ろしく気長な作業に思われ、自分の思いつくような方法では到底完遂困難に思われる。
(「超長距離走」は筆者の認識では、「長距離」におそらく当たるマラソンより長く、一日かけて200kmなどの距離を走る。)
荻生徂徠は漢文中心の文章を多く書いている。
その点、本居宣長は、漢文的というより古文的な文章(ひらかな多め)が多数あり、パッと見て、宣長の文章の方に、文字起こししやすいものが多くありそうに筆者は感じたりする。
(岩波文庫の 本居宣長による「うひ山ふみ」は、村岡典嗣の校註で、村岡氏は没後から長い年月が経過しており、パブリックドメイン化していると考えて良さそうである。村岡典嗣氏は、記憶によると1940〜1950年代没。)
なんとなく最後に、あれこれ追記して思いついたことを盛り込んだため、まとまりが悪いような気もするが、ウィキソース について書いておきたいという目的はある程度達せられたので、ここで執筆を終わりにする。
■リンク集
筆者のある便宜のため、リンクは、リンクとして有効化したものと別に、あえて有効化しないURLも併記する。
ウィキソース トップページ
https://ja.m.wikisource.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
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