【図解】私的『人新世の資本論』~来るべき〇〇社会編~
マルクスが晩年に関心をもったという原始的な協同体における「生活様式」から「資本制生産様式」はどのように発展してきたのだろうか?現在では人類学や考古学の成果により、彼が生きていた頃よりもその変遷を素描することができるようになってきている。今回、自分なりに図解したことを整理してみた。今回は最終回だ。
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資本制システムの黄金時代
集権化された国家権力によって大規模な財政基盤や強力な軍隊を組織し、海外での利権獲得に成功した国民国家は、周辺国から物的・人的資源を収奪しながら、国内の社会基盤の強化にも尽力していく。
最先端の科学技術を活用しながら、重工業などの基幹産業を育成し、電気・交通・通信などのインフラ整備を行い、国民の教育水準や医療衛生の向上を推進していった。
産業革命と資本制システムの確立により、生産力は飛躍的に向上し、市場経済が発展した。賃金は上昇し、購買力の増加にともなう生活水準の劇的な向上をもたらした。
もちろん、人的費用を減少させることで利潤を増やそうとする企業や資本家がいたせいで、低賃金と過酷な労働環境のもとで悲惨な生活を余儀なくされる労働者も多数存在した。
だが、国益と税収を増した国家によって、教育や医療・福祉へと税が再配分されたことで、市場競争がもたらす経済格差や貧困をある程度は抑えることができた。
社会環境は安心・安全、便利・快適さを増し、死亡率の低下によって人口も拡大し、それなりに裕福な中間層が増大した。市場規模はますます拡張し、企業や資本家はより高い利潤率を求めて新たな分野への投資を積極的に行った。
このまま順調に社会は進歩し、資本主義によって経済は右肩上がりに成長し続ける・・・はずだった。
資本制システムの黄昏
ところが、こうした近代化のプロセスをいち早く達成した先進国においても、後進の途上国が台頭して原材料費や資源価格が高騰し、圧倒的に有利だった交易条件が悪化していくと、貿易収支に陰りが見え始める。
さらに、人口拡大や中間層の増大に支えられていた国内市場が、少子化に加えて買い替え需要しか発生しない「飽和状態」に達すると、右肩上がりの成長曲線が停滞・下降フェーズに移行した。【1】
そうなれば、企業が生き残りをかけて、利潤率の高い海外に資本投資し、価格転嫁しにくい賃金を下げるため、より安い労働力や設備条件を内外に求めることは必定だ。いわゆる「ヒト・モノ・カネ・サービス」が国境を越えて流動化するグローバリゼーションが加速する。【2】
産業は空洞化し、雇用条件や雇用環境も劣化し、失業率は上昇する。全体として生活水準も下がり、格差は拡大する。消費は冷え込み、市場規模はさらに縮小することで、企業の投資活動は停滞し、価格競争によって利潤率はじりじりと下がっていく。税収の悪化した政府に手を差し出す余裕はもはやない…。【3】
この負のスパイラルを抜け出すため、その弥縫策として打ち出されたのが、金融市場の拡大とIT革命だ。しかし、実物経済で停滞した資本の流れを金融市場に移したところで、使用価値に基づかないマネーゲームを誘発し、不動産などへの投機バブルを生み出して破裂させただけだった。
IT革命が新たな職業やビジネスチャンスを生じさせたことは間違いないが、機械による生産効率の向上は人間を雇うこととのトレードオフにもなっている。今後はさらにその動きが加速するはずだ。
奥の手として持ち出されたのが金融緩和である。国家が国債を発行し、中央銀行が市場取引を通じてそれを大量に購入すれば、そのぶんだけ市中に貨幣は流れていく。しかしながら、もはや市場が飽和状態に達し、リターンが期待できる新たな投資先がなければ、いくら貨幣を流し込もうとしたところで実体経済は活性化しない。
流動性効果が発揮されない場合には、国債を発行すればするほど財政赤字だけが巨額に膨らんでいく。それはあたかも「負債」を受け取り手へと順々に先送りする巨大な「ネズミ講」のようであり、国家による実質的な借金の踏み倒し(紙幣がほんとうにただ同然の紙屑となること)という悪夢を迎えるまで走り続けるチキンレースになっている。【4】
延命措置の末路
こうして、資本制システムによって経済成長し続けるという「神話」はもはや無謬ではなくなった。にもかかわらず、いやそれ故にこそ無理にでも経済成長させようと(機能不全の実態を"粉飾"または"偽装"しながら)、ありとあらゆる物的・人的資源がますます動員され、廃棄されていくのだ。
長時間労働はもとより、画一化され、無用で無意味な業務(ブルシット・ジョブ)が大量に生み出される一方で、有用で有限な環境資源は浪費され、地球温暖化はいやおうなく進行し、異常気象はますますもって身近なものになってきている。
また、資本制システムがあらゆるところに蔓延し、人びとが市場に依存すればするほど、共同体は解体され、貨幣交換を通じた人間関係(無縁社会)がもっぱらになっていく。機械化やマニュアル化も高度に進展し、人間はますます「入替可能な存在」になった。
人類が進化環境で形成してきた、「かけ替えのない人間同士の交流」を何よりの報酬とする脳内のデフォルト設定と、あまりにもミスマッチな社会環境で暮らさざるを得なくなっているのだ。
その結果、第三世界よりもはるかに安全で便利な生活環境に暮らしているにもかかわらず、先進国の多くの人が「幸福」を感じることができなくなっている。
関係性の3タイプ+1
それでは、「経済成長することを止められない社会」を止めるために、そしてなにより人間がフツーに生きていて「幸福」や「安堵」を感じられる社会にするために、いったい何が必要なのだろう。
ここではその方向性を少し別の角度から見ておきたい。
まずは、これまで人類誕生から資本制生産様式が生み出されるまでに見てきた歴史を、「社会構造の関係性」に注目しながらざっと振り返ってみよう。
つまり、格差や不公平は生み出しにくい反面、束縛的で不自由な関係性であった。(①狩猟採集生活)
つまり、格差や不公平が生じると同時に、束縛的で不自由な関係性であった。(②定住国家)
つまり、格差や不公平は生み出しにくい反面、束縛的で不自由な関係性であった。(③中間共同体)
つまり、格差や不公平が生じる反面、選択の自由が権利として保障されるようになった。(④市場社会)
この関係性を、横軸に「格差か平等か」、縦軸に「拘束か自由か」という四象限に整理してみよう。
【A】の領域は、横軸では「互恵性」や「共同性」の関係によって「平等」が成立しているが、縦軸では「閉鎖的で拘束力が強い」関係である。(①狩猟採集生活・③中間共同体)
【B】の領域は、横軸では「略取/再分配」によって「格差・不公平」が生じ、縦軸では「支配/保護」の束縛的な関係である。(②定住国家)
【C】の領域では、縦軸では「自由の権利」がある一方、横軸では「交換/競争」によって「格差」が生じる。(④市場社会)
近代社会がよくできていたのは、国民国家や企業が、自由選択の権利を人民に認めることで「統治/搾取」の関係を(内包的に)継続させる一方で、市場経済の拡大で生じる格差や貧困を、国益の増大による税の再分配によって(ある程度は)是正したことだ(【B】+【C】)。【5】
しかし、それが機能していたのも、上でみた通り、国家がその利潤を革新技術の導入や産業保護の実施、インフラ投資や教育・福祉分野に最大限に再配分できた経済成長の時代までだった。
国民国家システムと資本制システムが機能不全であるどころか、その弊害が誰の目にも拭い難くなってきているいま、人類はあらたな社会の原理を創設(再創造)しないといけない段階にきているということだ。
来るべき〇〇〇ニズム
重要なのは、日常の生活世界(働く場も含まれる)において個人が豊かな人間関係に包摂され、自然環境や他者との共生を通して「信頼」や「幸福」を実感できるかどうかである。
ただし、かつての共同体のあり方にはもはや戻ることはできないし、戻る必要もない。かつての共同体の因習がえてしてそうであったように、メンバーの参入離脱を封じることで、分け前に与れる代わりに過剰な同調圧力を強いる、”しがらみ”たっぷりの社会になってしまったのではそれこそ元の木阿弥だからだ。
また、「格差や不平等」の拡大をもたらす社会(左側)では、第1回で説明した自然との「対称性の原理」(人間の生活世界のロジックと自然の摂理を均衡する営み)が破られたが、「共有や平等」を志向する社会(右側)では「対称性」を再構築しようする試みがなされた。
そうであるとすれば、求むべき社会とは【D】の領域を目指すものとなるだろう。それはまずもって、信頼に基づく相互扶助がありつつも、対等な関係性のなかで自由や多様性が保障されているような社会であるはずだ。
さらに、本来誰のものでもない有限な資源を上手く活用しながら、自然の摂理との均衡を保ち続けられる、持続可能な社会でもなければならない。
そして、最大の問題の根源は、やはり資本制システムだ。
この社会では、気候が変動するほどの経済活動によって大量の商品が世に溢れる一方で、生きるうえで必要なものすら貨幣がないと手に入らない。そのために不当なまでの過剰な労働を強いられ、人間らしい営みで人生を豊かにする余裕が奪われている。
まずは、企業や市場の「巨大なシステム」に依存しないと生きていけない社会の在り方を必要なところから変えなければならない。
そのためには、資本制の拡大によって私有化されてきた、人々が生きていくうえで欠かせない「共有財=コモンズ」(衣食住や教育・福祉など)を企業や行政から奪還し、皆で共有することだ。あるいは少なくとも、民主的な手段で運用管理できるようにしなければならない。
富をもたらす農地や生産手段が私有化され、貸与されることから「支配と搾取」は発生するからだ。これだけでもずいぶん悩みや不安は減るはずだ。なにせ、とりあえずは「どうにかなる」のだから。
そして、協同組合や互恵的なネットワークをさまざまな分野でつくり、「市場経済」の外で確保できる便益を少しずつでも増やせるようにしなければならないだろう。
生産の場でも、(ワーカーズコープのような)労働者自らが経営に参画できるような仕組みが広がれば、少なくとも序列的な「雇用関係」から解放され、雇止めに怯える必要もない。
もちろん、働き方も重要だ。「働かせ方」を企業や行政に決めさせるのではなく、本当の意味で「やりがい」や「他者貢献」を実感できるようにしなければ、消費による快楽を追い求める「よき労働者」の生活に舞い戻ってしまうからだ。
そして、貨幣や商品以外で得られる満足が増えれば増えるほど、金銭欲しさに過剰な利益を追求し、無駄な生産をする必要もなくなっていく。ただひたすら利潤を増やすことが自己目的と化した市場経済から、生活にとって本当に有用な(使用価値に基づいた)人間社会の営みへと変えていくのだ。
このような市民みずからが必要なサービスを自主的に構築していく運動に加え、いま既にあるシステムを解体・縮小させるだけでなく、目指すべき社会のあり方を実現するために、それらを民主的に活用していく試みも重要だ。
バルセロナをはじめとして、地域住民による民主的な行政運営によって、公共サービスの再公営化や、持続可能な食と農の取り組みを積極的に推進する自治体も出現している。
また、台湾のオードーリー・タンを中心とする行政のオープン・ガバナンスの実践も注目に値する。コロナ禍において「希少なマスク(当初はこれこそまさにコモンだった)を必要な市民に遅滞なく配布する」という社会的課題を、市民の知恵と行政の力とデジタル技術を融合させることで解決し、有名になった。
そこでは、デジタル技術を駆使しながら、行政や司法の決定プロセスを徹底的に可視化することで市民からの「信頼」を醸成すると同時に、「互恵的な協力」や「相互扶助」を社会全体に浸透させるために、社会的弱者や高齢者、マイノリティを含むすべての市民を社会的に包摂することが目指されている。
企業や市場に依存しない、住み心地のよい社会を、自分たちのの手でつくっていく。そのためのさまざまな実践や試みを、小さな領域から、ひとつの地域から、連帯しながら広げていくこと。
絵空事だと思われる方も多いだろう。
だが、思い出してほしい。そもそも足が遅く力も弱い人類が、ここまで繁殖し、繁栄できたのは、他のいかなる動物も真似できない規模で「他者との協力行動」ができたからだ。
そして、「分かち合い」と「相互扶助」に基づいた人間社会を取り戻すための取り組みが、いま世界中で徐々にではあるが確実に胎動している。そこには、悲劇的なカタストロフ(破局)を避けるため、崖っぷちの現状を打破する可能性が秘められているのではないだろうか。
主な参考・関連書籍