溶けにくい餃子の皮の作り方と餃子私見。餃子は戦後復興のシンボルだった。そして、これからの日本の発展も餃子にかかっている。
餃子は豚マンと日本人に言われていた。
第二次戦時中の大連では、餃子は豚マンとよばれていた。
『檀流クッキング』には、そのように書かれている。
第二次世界大戦に敗戦し、中国からひきあげた人々が、戦後の混乱期に餃子と名をかえ日本中にひろめた。
戦後のなにもない焼け野原から鉄の板をひろい、闇市で粉を調達し、水と塩と混ぜあわせ、野菜のくずきれなどを皮で包み、見よう見まねで作った餃子が戦後に生きる日本人の舌にミート。
餃子は日本が復興するにつれ、またたくまに、あれよ、あれよと焼いた餃子の香りが室内に充満するように日本全国にひろがった。
さらには、餃子の骨組みは残しつつ、包みこむ食材の研究、皮の大きさ小ささ厚さなどを日本人らしい勤勉さで本場中国にはない餃子のレシピをうみだした。
平安貴族のオチョボ口でも食べられるほど小さい餃子を開発。
地方色ゆたかな餃子も開発。
挙句の果てには、どこの地方が餃子をいちばん消費するかの争いまでおこっている。
日本人は焼き餃子をこのむ、中国人は水餃子をこのむと言われているが、最近の中国人も焼き餃子の魅力にハマッていると聞く。
日本人のなかにも焼き餃子よりも水餃子を好むひとたちがいた。
餃子の皮は店で買える、その皮を煮たぎらしたお湯にいれると、デロデロベロベロ、ティッシュペーパーを水につけたように分解してしまう餃子の皮もある。
であるならば、水餃子を好むひとたちは餃子の皮をお家で作る必要があった。
そこで、お湯にいれても溶けにくい自己流餃子の皮の作り方をここで披露しようと思う。
まずは粉の種類。
強力粉や薄力粉を混ぜるレシピがおおい。
強力粉だけでは皮がかたくなりすぎる、薄力粉だけでは皮がやわらかくなりすぎる。
そこでいい塩梅に強力粉と薄力粉を混ぜあわせて餃子の皮を作ることになる。
粉の種類や気温や室温のちがいから、強力粉と薄力粉の混ぜ合わせる分量を調整するのはヤッカイきわまりない。
そこで、私は中力粉をつかう。
讃岐のうどん人たちが、白く太く跳ねるうどんを食すために日本人らしい愚直さで研究をかさねた中力粉をねりあげ作った餃子の皮は水にとけず、ほのかな甘みがあり、柳のような滑らかさと跳ねるような弾力をあわせもつ。
つけくわえるならば、粉を混ぜあわせる必要もない。
話変わって丸谷才一著『食通知ったかぶり』のなかで、讃岐うどんとサッポロ・ラーメンは、戦後二大ネーミングだと書かれている。
これが高松うどんや北海道ラーメンであれば、いまのように世間一般に浸透していなかっただろうと書かれている。
たしかに、その通りだと思う。
戦前の地名をつかったネーミングのほうが日本人の心のど真ん中にささる。
現在の地名はどことなく、ペチャッとして貧相、品格、品位がなく、優雅さもなくガリガリ、そのように思いませんか?
話がそれた。餃子の皮の作り方に話をもどす。
中力粉にお湯と塩をくわえてねりあげる。
お湯の分量は中力粉の半分の重さ。
お湯の温度は40度ほど。ゆったりと体をほぐせるほどのお風呂の温度。
塩の量はすこしむずかしい。
塩をたくさんいれると、弾力とコシがでる。
塩が少ないと柔らかい餃子の皮になる。
100gほどであれば、親指と人差し指、中指でつまんだくらいの分量の塩をいれている。
中力粉とお湯、塩をボウルなどの容器にいれ混ぜあわせる。
はじめから手で混ぜあわせると、ネトネトしたものが手にくっつき大変。
菜箸やゴムベラなどで混ぜあわせるとよい。
ベトベトせずに、しっとりとしてきたら手をつかい混ぜあわせる。
パンのように滑らかにする必要はない。
ざっくりと混ぜあわせて、おおざっぱに丸めておく。
さて、餃子の皮を天女の衣のように滑らかにし、鬼女のように頑健な歯ごたえにするコツ。
それは、放っておくこと。
不特定多数のひとが見る記事では、一時間とか二時間と生地を寝かせる時間は短い。
かわいい子には旅をさせろ、獅子は子を千尋の谷につき落とす。
おいしい餃子の皮を作るにはたっぷりと寝かせろ。
乾燥させないようにラップなどを生地にかけ寝かせる。
寝かせる場所はできるだけ洞窟のように冷たく、日光があたらず、乾燥しすぎておらず清潔な場所がよい。
というわけで、冷蔵庫の野菜室で餃子の皮の生地を寝かせる。
寝かせる時間は、半日も寝かせれば口あたりのよい餃子の皮ができる。
ここだけの話、ここだけの話、自己責任の話になりますが、おいしい餃子の皮を作りたければたっぷりと1日は野菜室で寝かせてやれば、うっとりするような口当たり、それでいて芯のとおった噛みごたえのある餃子の皮になります。
ただし、清潔な調理器具で粉をこね、クリーンな環境で餃子の皮を寝かせなければいけませんゾ。
時が極上の餃子の皮を作ってくれるあいだに考えること、それは餃子の具のこと。
餃子の味は、皮と具だけで完成させるものではない。
ゆでたり焼いたり揚げたりした餃子にサムシングを足して完成させるものだと思っている。
サムシングとは、酢醤油、中国醤油、もろみ、バスサミコ酢、ケチャップ、ラー油、豆板醤、タバスコ、柚子胡椒、黒胡椒、ニンニクなどの香味野菜などをかけたり、つけたりして、めいめいが餃子の味を完成させるものだと思っている。
というわけで餃子の具は、刺激的な香りや風味ではいかん。袋にいれて飛びだすような錐のような具ではいかん。
淡泊すぎても、それはそれで味気がない。
淡泊さのなかに、味の深さと厚みが必要だと思う。
では、餃子の具の味に深さと厚みをもたらす食材とはなんぞや。
お答えしよう。
乾物である。
干しエビや干しシイタケはお手頃価格で売られている。
干しシイタケには少し面白い逸話がある。日本と中国のいにしえの交流話。
曹洞宗をひらいた道元が修行するために、遣唐使がのるような船で中国の港についた。
道元がのってきた船に、たくさんの徳をつんだであろう人物が楚々と歩いてやってきた。
その人物は遠方にある大きな寺に所属する僧だった。
寺では典座(てんぞ)の役についているとのこと。典座とは寺の料理を用意する役職。
その僧は、日本の品質のよい干しシイタケをもとめにきたという。
あなたほどの気品あふれるお方が、料理をするなんて、干しシイタケのために遠くから歩いてくるなんて時間の無駄ではありませんか、と道元は中国の僧にたずねた。
料理をすることほど素晴らしい修行はない、と中国の僧は道元にこたえる。
道元と中国の僧は語りあい、道元はいたく感服し、のちにその僧の所属する寺でも修行することになる。
食をこしらえることは修行だという教えは、日本の干しシイタケが美味しくなければ道元のなかに生まれることはなかったかもしれない。
餃子の具に話を戻す。乾物のラストピースの干し貝柱は、すこしお高い。
けれども、干し貝柱を1個か2個いれるだけで餃子の味が、ヴィーナスが誕生するように味が開くのでダマされたと思って、清水寺の舞台から飛びおりる勢いで貝柱を買い、餃子の具のなかに貝柱を落とそう。
なになに、まだ高い干し貝柱を買うのがためらわれるとな。
では、ここでもうひとつ干し貝柱を餃子の具にいれる理由をつけ加えよう。
食べ物と酒の描写をさせては文豪随一の開高健が、シュウマイがおいしくなる三種の神器として、豚の背脂、干しシイタケ、干し貝柱をあげている。
餃子の話ではあるが、問題はない。
餃子もシュウマイも点心のひとつだからだ。
豚の背脂はすこし濃いので豚のミンチを使う。
つぎに餃子の具にいれる野菜は白菜を使う。
キャベツは水分がおおくペチャペチャになる、
そこで白菜を使う。
できれば白菜を洗い、陽にあて水分をとばし、りきりきとした白菜の茎が、しなやかに曲がりしなりとなるまで乾燥させた白菜を餃子にいれるとよい。
白菜を乾燥させるひと手間が、餃子の具の味を濃く厚くする。
水分のぬけた白菜は、しっとりとした口あたりになり熟成したようにほのかに甘くなる。
白菜の知識も開高健から拝借した。
ニンニクやネギ、ショウガ、ニラは刺激と香りが強いのでいれない。お好みでいれてもらってもかまわない。
餃子の具の材料はそろった。
白菜を細かく切る。干しシイタケと干し貝柱を細かくする。
切った白菜、細かくした干しシイタケと細かくした干し貝柱、干しエビをボウルにいれる。
餃子の具の重量の1パーセントほどの塩、そして香りのないゴマ油を大匙1くわえる。
端麗な味わいの餃子の具をめざす。濃い色のゴマ油はいれない。お好みで濃い色のゴマ油をいれてもらってもかまわない。
棒などでモチつきのように食材をこねあわせる。
豚肉がねばりだす。しっかりと豚肉をねばらしたほうが、ソーセージのようにしっかりとした噛みごたえの具になる。
こねあげた具は、乾燥しないように密閉容器などにいれておく。
つぎに手作り餃子の皮でもっともメンドクサイ作業であるところの丸い皮を作る作業。
てばやく、すばやく、小学生でも丸い餃子の皮を作れる方法を書きしるす。
寝かせた餃子の生地を清潔な場所にとりだす。
うどんや蕎麦を作る職人のように生地をのばす。お好みの太さに生地をのばす。
水餃子で食べるときは、すこしブ厚いぐらいが正解だと思う。
お好みの太さにのばした生地のうえに、割れにくいグラスをのせる。
グラスの口の大きさの餃子の皮ができる。お好みの大きさのグラスを選ぶ。
そして、えいっと力をいれ丸く生地をくりぬく。
くりぬく場所がなくなれば、穴ぼこだらけの生地をもう一度まるめ、ふたたび生地をのばす。
そして、グラスにて丸くくりぬく。
この作業をくりかえしていけば、餃子の皮を量産できる。
あとは乾燥しないように、片栗粉をまぶしておく。
皮を作り、すぐに具をつつみ、ゆでるのであれば片栗粉をまぶす必要はない。
片栗粉をまぶしすぎると、ゆでたお湯にトロミがつく。
餃子鍋などにいれるときはご注意を。
手作りの餃子の皮は作りたてであれば、具を包み餃子の皮をとじるときに水は必要ない。
ただし、乾燥していると餃子の皮をとじるのに水が必要になる。
餃子の皮の包みかたはご自由に。思い思いの包みかたで餃子の皮に具を包みとじよう。
餃子の皮をとじたら、お湯にいれゆであげるだけだ。
お湯にいれた餃子は、鍋の底にしずむ。餃子が鍋の底にくっつかないようにソッと動かす。
餃子が浮きあがってくればできあがりだ。
白い湯気をたてるる純白な皮。
器のうえを滑り、箸からも逃げだしかねない餃子をつかみ、はふはふと声をあげながら召しあがれ。
餃子のびらびらとした部分は、きしめんのように流麗。
むっちりとした噛みごたえの皮は、ぐぐっと歯がしずみこむ。
グルテンとグルテンがスクラムを組んでいる。容易に餃子の皮は割れない。
びらびら、むっちりとした餃子の皮に亀裂がはいった瞬間。
豚の脂が「ぷしゃ〜っ」と音をたて噴きだす。
マグマのように熱をたくわえられたお汁は、舌の先端を白く焼きあげる。
しばらく熱さを我慢していると、潤な豚の脂の甘さがひろがり、焼けたエビのこうばしい香りが飛ぶ。
いぶし銀なシイタケの風味がじゅわりと舌に浸透する。
口からはく白い湯気のなかには、ホタテが白い帆をたて天にのぼっていくのが見える。
夢心地なうっとりとさせる恍惚な味わいが、口中にめいっぱいひろがる。
シンプルな味つけ、けれども淡泊なうま味、あなどりがたいディープなコクある餃子。
ただ、2個3個と食べつづけるにつれ、何かが足りないと感じられるようになると思う。
そんなときは、あなたのベロメーターを信じ、お好みの調味料を水餃子にかける。
あたらしい餃子の扉がひらき、飽きることなく餃子を最後まで食べられるだろう。
ゆでるだけでなく中力粉で作った餃子は、揚げてもよい。
揚げ餃子ばかりでは、すこし胃がもたれる。
ただ、お弁当やお酒のアテに一つ二つ揚げ餃子があると、思わず口元がほころぶ。
もちろん、焼いてもらってもかまわない。
水餃子、揚げ餃子よりも、なぜに焼き餃子は日本で主流になったのだろうか。
私はビールの影響が大きいと考えている。
日本人がビールときけば思い浮かべる麦茶のような色の液体に、シュワシュワとした雲をのせ、持ち手までをキンキンに冷やしたビール。
そのビールと焼き餃子の相性は滅法界よい。
高度成長期にはビールシェア争いがあり、その争いは中華料理屋にまでひろがった。
中華料理屋でもビールを提供するようになると、水餃子よりも焼き餃子が好まれるようになった。
その結果、焼き餃子が優位にたった。
私の愚考はいかがだろうか。
それはともかく、残った問題を片付けよう。
残った問題とは、おいしい餃子だけども残るときもある。
そんなときは、ひとつずつラップに包み冷凍庫にいれ保存するとよい。
1週間ほどは保存できる。それ以上は、責任をもてない。
冷凍した餃子を食べるときは、凍ったままお湯にいれゆでる。
いつものラーメンが豪華に。
最後に残る問題。それは、餃子の具、もしくは餃子の皮があまること。
餃子の皮がのこったときは、ラップにつつみ冷凍保存するとよい。
自然解凍すれば餃子の皮として再利用できる。
皮だけゆでれば、具なしワンタンにもなる。
餃子の皮をすべて使いきった。けれども餃子の具が残っている。
そんなときは、しなっとさせた白菜に餃子の具をはさみこみ容器にいれ蒸しあげる。
それだけで満漢全席の末席にすべりこめそうな立派な料理ができる。
白菜の甘みと餃子の具が混ざりあい、ふくよかに甘く、白菜と具の食感の対比の妙。
容器の底にたまった、黄金色のスープは1cmほどの深さ。
けれども、蒸し料理の神髄がそのスープにこめられている。
食材を焼かずに乾燥させない、そして、食材をゆでず栄養をのがさない蒸すという調理方法は、すべての食材からあますことなく旨味と甘味、風味を抽出しきっている。
旨味をぬかれた白菜たちは、小野小町のようにガイコツになりはててはいない。
お汁たっぷり、白菜と具にかぶりつくと、オイリーで純な液体がしみでてくる。
焼け野原となった日本。
中国からもちかえった知識で餃子を作り、日本人の舌にあうように改良し、貧困、混乱、絶望などを餃子の皮に包みこみ日本人は私たちが住むこの国をたてなおした。
日本は成長した。
東京オリンピックや大阪万博、東海道新幹線開通。日本人が狂乱し熱狂し貪婪に世界に進出した情熱を包みこんだ餃子は、日本の国民食のひとつになる。
いうなれば、餃子は戦後復興のシンボルと言える。
戦後日本の絶頂期は過ぎ去った。
いま、現在、日本は衰退している。
けれども希望はある。
日本のメーカーの底力を冷凍焼き餃子に見た。
油をひかず、水をいれずとも焦げめが美しい焼き餃子を焼けるのだ。
戦後の日本人にみられた餃子にかける勤勉、綿密な情熱を現在の日本企業に見た。
また、餃子を自宅で作りご家庭の味を探求なされるかたも増えてきている。
「やっぱり家の餃子の味が最高だな」と街中で聞いたことがある。
餃子の味をまじめに研究し、発展させ、日本人好みの餃子を作りあげる気持ちを日本人は忘れていなかった。
餃子があるかぎり日本は大丈夫だ。
最後まで読んでもらった皆々様、いまから餃子の皮をつくり、餃子の具をこね、つつみ、ゆで、焼き日本をたてなおしましょう。