今も昔も変わらぬこと
最近、寝る前に読むのは、もうこの世にいない作家や詩人の作品だ。
夏目漱石や太宰治の小説を読み返したり、石川啄木の歌集を手に取ってみたりしている。
仕事もプライベートもデジタルだらけの現代的な生活をした1日の終わりに、アナログな手触りで明治から昭和にかけての世界を観る。心なしか、気持ちが落ち着いてくる。
昔の世界を観る、と言いながら一番僕が惹かれるのは、今と変わらぬ部分だ。
浅草や銀座の風景だったり、元日の心の動きだったり、石川啄木が詠んだ詩歌は今と繋がっていることがはっきりとわかる。
ちょっとした罪悪感や怒り、寂しさも嬉しいと感じることも、現代とあまり変わっていない。
太宰治の「富嶽百景」では、井伏鱒二と三ツ峠に富士山を見に行く場面があり、そこにはこんな記述がある。
石に腰掛けて、屁をこいたという話だ。
師弟関係だった人がオナラした様子なんか書いても良かったんだろうか。
後輩がTwitterで「富士山見に行ったのに太はつまんなそうにして屁をこいてた」とか書いたら普通に殴るだろうなと思いながら太宰治の書簡集を読んでみると、「お前何書いてんだよ、そもそもオレ屁なんかこいてねえよ」という井伏の激怒した手紙を受け取った太宰が、言い訳がましく陳謝する手紙が収められていて笑ってしまった。
夏目漱石の「吾輩は猫である」の一場面だ。
当時より更に西洋化した日本を自分は生きているんだろうなあ、も思いながら、最近僕が行き着いた考えがそのまんまこれだった。
キャリアプランを考えるみたいな積極的な行動を取りまくったあげく、たどり着いたのがこれだった。
積極的になることで確かに物事は動き出すのだけど、どこかで自分ではコントロールできない、どうすることもできない事象にぶつかって不満足になる。
ここ数年、僕は周りにあまり期待をせずに、そうなっている現状を受け入れてから、何をしようか考えるようになった。
資金も人手も満足じゃないIT企業に勤めているということもあるし、応援している横浜F・マリノスが貫いているアタッキングフットボールの信条が「コントロールできる部分と、コントロールできない部分がどこにあるのかに重きを置く。自分たちにフォーカスする」ことも大きく影響している。
令和のIT企業や、オーストラリア人の指揮官がいるサッカーチームだろうと、考えていることは明治時代の小説とあまり変わらないのだ。
文明が発達した分、人間も進化しているような気にもなるけれど、本来的な部分はあまり変わっていない。
そう思うと、今抱えている悩みも感じる喜びも、大き過ぎることではないし、ちっぽけだということでもないのだろう。
人が紡いできた歴史のほんの一部でしかないこの人生を、どうやって生きていこうか。
とりあえず僕は今と昔の文学でも読みながら、自分の気持ちと向き合ってみようと思う。
マンションから見える富士山を見るためにバルコニーに出たら、少し雲がかかっている。
今日は綺麗に見えないかなあと思いながら眺めていると、お腹が緩んで屁が出た。
今を生きて / ASIAN KUNG-FU GENERATION
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