2022年1月の記事一覧
雑考・日記・メモ「漫画アシュラの事」
昨年亡くなった白土三平(2021年10月8日)。白土三平の『カムイ伝』は好きです。でも、人の「在り方」に関してジョージ秋山の『アシュラ』程徹底していない気がします。
「生まれてこないほうがよかったギャア!」とアシュラは叫ぶ。何故俺は生まれてしまったのか!俺が望んだわけではないのに!
『アシュラ』に一貫している苦悩であり叫びであり、問いである。
この衝撃的なセリフ。
しかしこのセリフのインパ
雑考・日記・メモ「しかしコミュニティだけあってもまちづくりにはならない」
コミュニティがなければまちづくりは出来ない。
しかしコミュニティだけあってもまちづくりにはならない。
まちづくりの活動は自然発生的なコミュニティの活動ではないのだから。
まちづくりはコミュニティの連合した、あくまでアソシエーションの活動だ。それはパブリックな協働であるものの、けれども単に行政とコミュニティが協働すればパブリックになるわけでもない。
コミュニティにもシチズンシップが必要だ。
と、同時
雑考・日記・メモ「良い事をしたい?それとも貴方を喜ばせたい?」
良い事をしたい?それとも貴方を喜ばせたい?
良い事をしたい❗と貴方を喜ばせたい❗は明らかに異なるのに、混同することは多く、あるいは両立させようとする人も多く、しかしやっぱりそれは無理なんだと思います。3人称の倫理と2人称の倫理は噛み合わない。別物と割り切って、その齟齬をどうやって調停するかと言う方法論のステージに目を向けるべきかな。と思います。だからそれは倫理としては次善でしかないのだろうけれど
詩・散文「Natural born killers」
Natural born killers
誰かとつながり生きている支え合って生きている
喜びを分かち合ったり悲しみを拭いあったりと
それはとても素敵なことなのだ
と同時に例えばそれは
一匹の蝶の羽ばたきがその地球の裏側で台風を引き起こす因子の一つでもあるように
例えば私の些細な振る舞いは
遠く何処かで知らない誰かを踏みにじり傷つけ殺しているに違いない
環境と共に在り関係の網の目の中に生きるとはそ
雑考・日記・メモ「音楽が『呪術により近い技術』なら『絵画』は・・・」
「音楽が『呪術により近い技術』なら『絵画』は・・・」
音楽は「呪術に向かう技術」であり「絵画」は「方法に向かう技法」であろう。
「呪術⇔技術⇔技法⇔方法⇔方策⇔策略⇔謀略」と言う「企ての序列」を考えるならば。
因みに「謀略」の先はもはや企てを介さない「略奪」。
2022年1月16日 岡村正敏
哲学・日記・メモ「故郷のこと」
故郷のこと
上京して夢果たせず、何十年を経て故郷に帰ってきたが、そこは故郷ではなかった。
確かに地理的にはそれはそこにあったし、文化風習は暮らしの中に残っていたが、そんなものは私の故郷ではなかった。
その「土地・地域」に私の故郷はなく(だからと言って普遍的な「大地」を故郷と呼びたいわけでもない)、私にとってのそれは、
あの日遊んだ犬であり、あの日殺したコガネムシであり、夏の空に湧く入道雲で