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雑考・日記・メモ「いただきますの嘘」
いただきますの嘘
私に食われた者たちは決して私を赦してくれないだろう。
それは私が何れ死に、数多生き物の糧となる、そういう命の循環を説いてさえ赦してはくれないだろう、だとすれば、私が生きるために命を食らう事への感謝の念とか、それを言葉にして食事の毎いに命を「いただきます」等言う事は、自己欺瞞に過ぎない。本当に命を食らう事に咎を感じるのならば食わなければいいのだから、そんな文句を百万回唱え海より深く感謝したとしても、私に食われた者たちは決して私を赦さないであろう。
しかし私は「いただきます」の欺瞞を弾劾したいわけではない。それは私が生きてしまった限り仕方のない事なのだから。だから私の弾劾は、食い食われるこの残酷な循環の、この残酷な世界そのものに向かわざるを得なくなる。
死は平等であるけれども死に方は平等ではないのだから。
幸福な夢見るような死もあれば、四肢を引きちぎられ、生きながらに丸のみにされる死もある。この死の多様性を多様性として展開するような、それが世界の残酷な真理であるのならば、私はこれに弾劾したいのだ。存在論的な弾劾と言ってもいい。
そうしてしかし、ではこの弾劾の根拠は何処にあるのか。
それは上に記したような思惟の合理性故にではなくて、この弾劾の根拠は、食われる者の、最後の哀し気な眼差しであるに他ならない。
最後の、その哀し気な眼差しが、私にそれをさせてやまない・・・。
2022年1月