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私は何者か、54
男は、もちろん女もだが。
結婚というものを望んではいない。
しかし、結論は同じだが、過程は多分ちがうと思う。
男は結婚しない女に対しても、妻像の幾分かを望み、結婚してない自分を知らず知らずに夫像に近づけてしまう。
手作りの料理が美味しい。
ボタンつけ。掃除。
昼ご飯で突然ビールを頼んで、運転はキミ。
イーブンなんて水くさい。と。
それに、男は、何より重い荷物を持ち続けている。はくちょう座 X - 1 のようだ。
女が結婚というものに懐疑的なのは、女の知っている妻像という胡散臭いものが自身であると思いたくないからだ。つまり、自分の道ではなく、誰かの作ったレールを走り続けるような錯覚に陥ってしまうからだ。誰のせいでもない。自身の感覚だ。
単純に言えば、好きだったはずが、大嫌いになってしまうことが、わかっているような気がするからだ。
少なくとも、女の結婚は幸せだったとは言い難い。失敗ではなかったにせよ。
2人で在ることの苦しみと孤独は、女にとって暗く、耐え難いものだった。
女の余生。美しく良いものだけを見て、聴いて、楽しく飲んで、食べて、ぐっすり眠りたいだけ。
主体は自身。なのに、そんな単純なことすら、実現できぬのか。
信じることの割りきれなさは平方根に閉じ込められた小鳥のようだ。
それでも、まだ、互いを信じて薄氷を渡ると言うなら。
ならば、魂の深さまで、ついていってくれるというのか?
その水底まで?
考えるために生きる。
生きるごとくに考える。
懸命に。
私から始まる。
私で終わる。
私は何者か。