人生って、逃げても案外なんとかなる。
「大丈夫ですか!?」
「意識が戻ったぞ!」
さっきまで駅のホームで立っていたはず、だった。
背中が地面に触れている。必死な表情の救急隊員に顔を覗き込まれ、周りがやたら騒がしい。そのまま担架に乗せられて、救急車まで運ばれている間の周りの声で、やっと状況を理解した。
意識を飛ばして、頭からぶっ倒れていたのだと。
そんな状況に陥ったのは、私のある【失敗】が原因であった。
話は2008年まで遡る。
就職して3年目。とある試験装置を1人で担当することになった。
部署のメンバーは少なく、前任者は去り、この装置を使いこなせる人間が自分一人しか居ない。今考えたらとんでもない状況だ。ワンオペとは正にこのことだろう。
私がなんとかしないと試験が止まる。そのプレッシャーもあり、かなり頑張った。無茶苦茶な試験日程でもなんとか調整し、時には残業し、時には休日出勤。
担当してから4年。一定の成果を出し、担当装置の売り上げは室全体で一番になった。しかしこんな生活ずっとは続けられないな、と思い始めたのもその頃だった。
家でちゃんとした晩御飯を食べる日が少なく、何故かレンジが使えない会社でコーンスープを啜り魚肉ソーセージを齧るだけの日がやたら多い。
当時のワンオペ体制では皆似たような境遇で、しょっぱい味のおやつを求めて私の元へやってくる人も結構居た。
私も含め、皆体力が続かなくなるだろうなあ。
20代後半に突入し、そう考え始めた頃に後輩の指導を担当することになった。
それと同時に全く新しい試験装置を導入することになり、その装置の責任者にと白羽の矢が立ち、話し合いの場に呼び出される。
「今の仕事は全部後輩に引き継いで、次はこれをよろしく」
「よしきちなら、出来ると思うから」
疲弊していたにも関わらず、NOが言える状況では無いし、言える性格では無かった私は”なんでもないこと“のように引き受けた。
結果、どうなったか。
仕事をなんとか後輩に引き継ぎ、さあこれから頑張ろう!と思っていたら。装置の導入は遅れに遅れ、人二倍働いていた状態から「仕事が全くありません」なんて状況に。
これまで忙しく働いていた人間から、仕事をスポーンと取り上げるとどうなるか?
心を病むんですよ、これが。自分の存在意義を失って。
折しも東日本大震災の後、会社全体で仕事がガクンと減っていて、手伝える仕事も少ない。おまけに一人一装置だから他の試験には手を出せない。
社内ニートと言う言葉が頭を過り、なんとかその日にする仕事を探す日々。
今までってなんだったんだろう。
することがないって辛すぎる。
家に帰った途端、ベッドに横たわり動けないようになっていた。ストレスから、肉が食べられなくなり次に魚がダメになった。
加えて、半年遅れで入った装置は、更に深い闇へ私を誘うことになる。
・試験体がとにかく繊細で、小さい。
・一酸化炭素を使うので取り扱いに気を遣う。
・装置は厄介な造りになっていて、頻繁に異常を起こす。
・メーカーの担当者が電話に出ない。びっくりするくらい出ない。
そんなこんなで上手く扱うことが出来ず、一人で遅くまで残業する日々が続いて。デモデータを納期までに採らなくてはならないプレッシャーに今度は米が食べられなくなった。
気が付けば私が食べられるのはパンとオイルと野菜とチーズだけ。無意識にラクト・ベジタリアンの食生活をしていた。
それに並走するように背中に痛みが走り頭痛が酷く、あまり眠れたような気がしない。
もしかして?いや、まさか?と思いつつ、意を決して行った病院で貰ったのは【うつ病】の診断だった。
診断前のQ&Aでは、ほぼフルスコアを叩き出し、医者に「あなたは重度です」と言われる始末。
何が怖いかって、それまで表面上『大丈夫』を取り繕っていたこと。
人に期待されると返さなくてはと思ってしまう悪癖がある。その為、いつも楽しそうに仕事をする、と評されたことがあるくらい私はそう見えるように振舞っていた。
つまり、会社で「うつ病になった」と相談しても「嘘⁉本当に⁉」みたいなリアクションしか返ってこない程度に。
薬を飲みながら働き続け、そのまま無理に無理を重ねたある日。
新しい装置でのデモデータをすべて採り終わった後、プレッシャーから解放されたせいだろうか、全く動けなくなった。
体が重くて仕方ない。まともに席に座っていられない。
そのまま直帰になり、その日から一か月、私は会社を休むことが決まった。
一か月間の生活はと言うと。
薬を飲み、壁とベッドの溝に挟まり、ただひたすら寝る。
何も興味が持てないし、薄い膜の中に居るようだった。
しかし、恐ろしいことに、頭のどこかで「自分は会社に行きたくないだけで病気の振りをして怠けているのでは?」と思っている節があった。
今考えたらそんなわけないだろう。主食がカロリーメイトなせいで太ったのに。
そのレベルの鬱が一か月でどうこうなるはずもなく、休みは三か月伸びることになる。
人生で一番長い夏休み。この「仮病では?」状態を打破したのは、たまたま読んだ銀魂の『かぶき町四天王編』だった。
人情物の話がぽっかり開いていた心の穴にボン!とハマったのだろう。人生で一番レベルでめちゃくちゃ泣いた。感情を爆発させたからか、纏わり付いていた薄い膜と自分に対する疑念が取れたのは、間違いなくこの作品のおかげだ。
そんなことがあったり、少しずつ外に出られるようになったり、食事が取れるようになったりで。
三か月の休みがそろそろ空ける頃、リハビリも兼ねて人に会いに出かけることにした。久々に長距離を移動し、軽く遊ぶつもりだったのだけれど。
乗馬、ジップライナー、ハイキング。訪ねた先の相手が用意してくれていた予定の数々は、当時の私には刺激が強すぎた。
2日の間「折角段取りしてくれたし」という気持ちで断ることが出来ず、予定をなんとかこなし、帰りの電車を待っている間に気を失って倒れた、らしい。
ここで話は冒頭に戻る。
らしい、というのは本当に記憶が一切ないからだ。
瞬きをしたらその場に倒れていて、心配する救急隊員と友人に呼びかけられていた。じわりと痛い体。顔に付く血と砂利。吹っ飛んだ眼鏡。
それくらい一瞬の出来事。
その後病院に搬送され、ライトを目の前で動かして意識の確認をされて。
「目力が強いですね」と場に似つかわしくないことを言われたのは朧気に覚えている。その後一日入院することとなった。
うつ病になったのも、こんな風にぶっ倒れて友人や周りの人に迷惑を掛けたのも、私が「無理です」「できないよ」を言えなかったせいだろう。
この病院送りでまだまだ復帰は無理だろうとストップが掛かり、更に休みは伸びた。実のところ、自分で思っていた以上に脳と体は悲鳴をあげていたようで、結局復帰できるまでにニ年の月日を要した。
この長い長い休みの間、総務の人だったり同じチームの人だったり、後輩達だったりが順番に様子を見に来てくれた。くだらない話をし、体調が良い時に外に連れ出してくれたのはありがたかった。
それにしても体調が乱気流のようなのも、感情に大きな波があるのも。自分でどうにもできないのは本当にもどかしい。復職したい気持ちと、もう同じ思いをしたくない気持ちで揺れ動く。
こんなことになったのはなんでだっけ?
真剣に考えた結果、無茶を引き受けて我慢に我慢を重ねてしまう自分と、人材頼りの仕事のシステム、この二つがこの状況を生み出したのだと結論付けた。
私はやらかしてしまってこんな状態だ。でも、この失敗を次に繋がなくてどうする。また繰り返して、同じような目に合う人間が確実に出てきてしまうじゃないか。
体調が良い時に今までの経緯を書類にまとめ、思い切って月に一度の面談の日に総務の人間に相談した結果、会社の方が徐々に変わり始めた。
これまでのシステムではダメだという流れになり、根本的な改革が行われた。
・一人一装置というワンオペ状態の解消
・個人単位で仕事を引き受けない
・グループで全体の仕事量を把握し、負荷の偏りを無くす
・結果のチェックを複数人で行う
これらの仕組みは今では定着し、この件以後に入った社員にはこれが当たり前となっている。それがとても嬉しい。
因みに二年経って復職した私は、失敗を元に意識を変えることにした。
・仕事が大変な時は優先順位を付けて無理せず順番に
・無茶な依頼は相談し話し合う
・仕事は助け合いなので助けをちゃんと求める
・どうしても本当に嫌なものは嫌だと逃げてしまう
こんな感じで本当に無理なことからはヒョイヒョイ逃げ回り、助けを求めるべき時には求め、人の手助けをするように変わっていった。
今では気の乗らない仕事を放り投げられたら嫌な顔を見せられる。そのあとちゃんとやるけど。
無理は自分だけじゃなく、必ず周りにも響く。まずは声を上げ「しんどいです」を言うことが、あの失敗から学んだ大切なことだ。
最後に。
自分がやらないと周りが困るなんてことは絶対ない。そんなものどうにかなるんだから、ダメな時はNOと言って逃げてみよう。
人生って、逃げても案外なんとかなる。
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