歳時記を旅する49〔麗か〕前*うららけし渡しの杭の舫ひ疵
土生 重次
(平成七年作、『刻』)
江戸時代から続く江戸川の「矢切の渡し」は、伊藤佐千夫の『野菊の墓』(明治三十九年)で十五歳の少年・斎藤政夫と二歳年上の従姉・民子の最後の別れの場面となった。
「船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持ち物をカバン一つにつめ込み民子とお増に送られて矢切の渡しへ降りた。…」
左千夫は柴又の帝釈天を何度か訪れて、江戸川を舟で渡ったことがある。矢切あたりの景色を大層気に入って、こんなところを舞台に小説を書いたら面白いだろうなあと漏らしていたという。
句は、雲雀の声しか聞こえないような麗かな渡し場。杭の疵だけが、そこに船が来ることを知らせている。
(岡田 耕)
(俳句雑誌『風友』令和六年四月号「風の軌跡ー重次俳句の系譜ー」)
写真/岡田 耕(矢切の渡し)