コオロギは「つづれさせ」と鳴くのか〈後編〉ー漢籍の受容ー
【スキ御礼】コオロギは「つづれさせ」と鳴くのか〈前編〉ー日本の俗言ー
【スキ御礼】コオロギは「つづれさせ」と鳴くのか〈中編〉ー中国の俗言ー
秋風にほころびぬらし藤袴つづりさせてふきりぎりす鳴く
在原棟梁のこの歌は、『毛詩草木鳥獣虫魚疏』に記載されている中国の蟋蟀の俗言を踏まえて詠まれた可能性はないだろうか。
そう考えたくなる理由が三つある。
この歌を題材にした、平安朝の和歌の漢籍の受容について、泉紀子氏の論文がある。その一部を少し長いが引用する。
論文では「つづれさせ」は、日本に昔からある擬声語ではないかと推測されているのは、根拠となる資料がないものと思われる。
それにもかかわらず、この歌が中国の俗言を踏まえたものと考えたくなる。
理由の一つ目は、論文によれば平安朝の歌人にとって『詩経』が身近であったことがある。
二つ目は、この歌が詠まれた「寛平御時后宮の歌合の歌」(889~893年に開催)が、『日本国見在書目録』(891年作成)が作成されたのとほぼ同時期に開催されていることがある。
三つめは、『日本国見在書目録』の作成も、「寛平御時后宮の歌合」も、宇多天皇の意向によって行われていることにある。
ここから、歌の作者である在原棟梁の気持を想像してみよう。
「寛平御時后宮の歌合」は宇多天皇の母が催した歌合せである。
ここで歌を詠むことになった在原棟梁は、どんな歌を出すのか考える。
その時代に『詩経』を踏まえた歌を詠むことはすでに珍しくなくなっている。
一方で、宇多天皇の命で漢籍の目録『日本国見在書目録』が整備されたばかりである。
宇多天皇の命によって整備された中国の文献を踏まえて詠んだ歌を、宇多天皇の母の前で披露すれば、宇多天皇の功績を讃えることになり、また歌人としての名声も得られるのではないかと考えたのである。
そこで在原棟梁は、『詩経』の解説書でもある『毛詩草木鳥獣虫魚疏』を『日本国見在書目録』から選び出し、読み込んだ。
そして、そこにあった『詩経』にも書かれていない中国の俗言を見つけたのである。
この歌でなにより注目すべきは、中国の俗言では「機を織る」(新調)だったのが、在原棟梁の歌では「綴れ刺せ」(修繕)に変化していることにある。
歌では、フジバカマの花が開く意味の「ほころぶ」と「袴の綻び」とを掛けて詠んでいるから、在原棟梁は「機を織る」(新調)を「綴れ刺せ」(修繕)と置き換えて詠んでいるのだろう。
その後の日本での俗言が、中国の俗言の「機を織る」(新調)ではなく、「綴れ刺せ」(修繕)に変容しているのは、在原棟梁の歌がその俗言の起点になっていると考えるのが順当ではないだろうか。
この歌の本当の意味するところは、
「フジバカマの花が秋風によって綻びてしまったようだ。中国では、コオロギが鳴けば怠け者のご婦人も冬の到来が近いことを知って機を織り始める"というようだ。花の開いたフジバカマが袴が綻んでいるようだから、コオロギが冬に備えて綴れ刺せと言って鳴いているようだよ。」
ということだったのだろう。
コオロギの異名「つづれさせ」の由来は、その鳴き声そのものの聞きなしではなく、在原棟梁の歌にある中国の俗言に起源をもつ言葉から取ったもの、というのが正解なのではないかと思うのである。
日本で古人がコオロギの鳴き声を「肩刺せ、裾(すそ)刺せ、綴(つづ)れ刺せ」などと「聞きなし」たというのは、藤原棟梁の歌が後に国内で変容していったものなのだろう。
そう考えないと、コオロギの鳴き声「リ・リ・リ・リ・リ」がどうして「ツ・ヅ・レ・サ・セ」と聞こえるのかという二つの間にある溝が埋まらないのである。
(岡田 耕)
*参考文献(引用のほか)
・青木正児『中華名物考』平凡社1988年
・小長谷恵吉『日本国見在書目録解説稿』小宮山書店1956年
・小沢正夫編著『作者別年代別古今和歌集 増補版』明治書院1990年
・毛詩草木鳥獣虫魚疏 - Wikipedia
・在原棟梁 - Wikipedia
・日本国見在書目録 - Wikipedia
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