☆#9『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
前回紹介した#8『消えたい』を買った古書店で「調布パルコで明後日まで古本市がありますよ」と教えられ、行ったらすぐに見つけた本。流れで早速読み、早速読み終わった。
『消えたい』で私的に不要と思った学術的解説がないので、するする入って読み易い。だからと言って説明効果が落ちているなんてことは全くない。むしろ上がっている。こういう方が、いいよ。
それぞれのエピソードに胸が痛くなり、また解決に向かう時には癒される。しかしそれにも増して私個人にとっては家族の大きな謎を解く鍵を、この本によって得ることが出来た。
それは『消えたい』の紹介文でも引いた「心理的ネグレクト」に関するものなのだが、そこから更に一歩踏み込んだ説明によって「こういう環境で自分は育ったのか」ということが明らかに分かって、夜中にガツーンと稲妻が走った(脳内に)。
様々なエピソードが出てくるが、著者は3つに分類している。
1.愛情ある家だが起きてしまった子供の問題
2.逆転した愛情のため起きてしまった問題
3.愛情が不在のため起きてしまった問題
(ただしこれは今私が勝手に自分の言葉で言い替えた。)
難易度は下に行くほど高まる。
親の問題はその親の問題に行き着く。子供の時されたように子供に接してしまう。そういう負の連鎖があるが、それだけで説明できない何かがある。この本ではその説明のために、(親の)「発達障害」が言及される。
発達障害の親に育てられる確率は(多分、著者の主観で)10%。ある意味で、これを知るのはショックである。しかし該当する患者はそれで合点が行く。「なるほど、そうだったのか」と。
どうやら人間は、問題が解決されることよりも問題の原因が明かされることで心を軽くするものらしい。私自身もそう感じた。過去の色々なこと、つい最近起きた小事件などの辻褄が綺麗に合った。
本書の表題は『子は親を救うために「心の病」になる』だが、言うまでもなくこれはセールスコピー。その10%の家庭に関しては、こう言わざるを得ないだろう。『子は救えない親のために「心の病」になる』と。
親子の問題は難しい。私はそう理解している。しかし私の親はどうもそう思っていないらしい。親子など簡単に上手く行くはずなのだ(「子供が親に合わせれば…」を含意)、と思っているらしい。だから先日、ちょっとその辺りについて話した時、憮然としていた。「そんなに難しい訳?人生は。不満」と言わんばかりだった。
私も姉も、多くを求めている訳ではない。謝ってほしいのでもなければ償ってほしいのでもない。ただ話を聞いて気持ちを汲んでくれれば良いのだと思っている…そんなことも最近、確認しつつある。
傷ついた子供の多くは、やはり同じように思うものらしい。
私と姉も、まさに先日、母に言ったものだった。「謝らないでいいんだよ」と。私たちの場合、次の言葉が違ったけれども。「教えてくれてありがとうって言ったら良いんだよ」。勿論、恩に着せたい訳でもない。
しかしその言葉は通らなかった。
子供の声を聞き入れないということは即ち、その訴え、その心情、その存在を否定するということ。子供の声を聞き入れるということには、しばしば痛みが伴う。自分を肯定しているのでなければ(=余裕がなければ)、聞き入れることは難しい。だから人の声を聞き入れられない人は、自分を否定している。言い替えると「言われたら負け」「指摘は攻撃」「助言は上から目線」と誤解する。
しかしだいたい問題は、当人が自己否定的であることに気付いていない点にある。
そんな環境で育つと、子供は当然、自己否定的になる。そこから心の病気が始まる。私もカウンセラーの端くれ、というか、はいベテランではございますが、体の問題は心の問題へ、心の問題は親子の問題へ必ず帰結する、というのはほぼ毎度のパターン。
その最初の芽は極めて小さい。小さいから皆それを過小評価する。「これくらい」と思って重ねる我慢、自己否定。
実は問題はその総量ではなく、その発想自体なのである。
この発想自体を入れ替えていかないと、決して問題は解決できないようになっている。そのようにして心の病気を見つめていくと、親子の間に何が不足していたかが分かる。
多くの場合、子供が苦闘して解決していく。しかし親が問題を理解して子供に歩み寄ろうとする場合もある。そんな家族風景を読んでいると感動する。
人間は悲しく愛しい存在だと常々思う。この真っ黒な宇宙の中にぽつんと生きている。どんなに人々が群れ集っても魂は孤独である。
古語で「かなし」は「愛し」/「哀し」と書いた。一見正反対と思えるこの二つの漢字。現代人より中世人の方が、人間に対する洞察が深かったと思われる。
次の話はそういう意味で、愛しく悲しい。悲しく愛しい。
それからカウンセリングを経て暫くの月日が経った後、
ある見方をすれば、「そうまで子供を傷つけなければ分からなかったのか」。しかし別の見方をすれば「そのどん詰まりまで行ったら気付けるだろうから、子供が生まれてきてくれた、引き受けてくれた」とも言える。引用した箇所だけだと伝わらないかもしれないが、話全体を読むと後者の印象を持つ。
お母さんはこれで、過去から引きずってきた傷をいくらか癒せるだろう。しかし子供はその傷を引き受けるだろう。家族の問題は一代では決して解決せず、解決したと思ったものは水面下に潜って、又は形を微妙に変えて次の代に持ち越される。「やっても無駄」に限りなく近い「やれば少しでもましになる」、そういう人生を生きるのが、人の悲しく愛しい定めであるように私には思われる。
真っ黒な話が大半を占めるが、著者の深い人間性によって全てが優しく明るい方に向いている良書。