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「空(くう)の思想」とはなにか?

般若心経

最初に断っておくが、自分は仏教徒ではない。

でも実家には仏壇がある。

母は毎朝仏壇にお供えをして線香を灯し、手を合わせてお経を唱えていた。

それが般若心経だった。

宗教に無関心だった自分がなぜお経を唱えてみようかと
考えるに至った理由はこうだ。

5年前娘が出産した子供が生まれつき心臓に疾患があり、
ゆくゆくは手術をしなければならなかったこと。

母が認知症になり気を配っていないと怪我や火の不始末などの危険があり、家族内でどう対応したら良いか相談中だったこと。

自分がうつ病で自分のことすらまともにできない状態であったこと。

コロナ禍で入院手術の孫や母に面会が全くできなかったこと。

心配事や悩み事がありすぎて
自分の感情をコントロールできなくなってしまったこと。

そんなこんなで自分ができることと言えば、祈ることくらいだったのだ。

仏壇にあった檀信徒のおつとめに般若心経が書かれていた。

漢字で260文字程度の短い経文だ。

ひらがなが振ってある。

声に出して読んでみた。

リズムやテンポが分からず、上手く読めない。

YouTube動画を見て練習したらなんとかコツを掴んだ。

何もできず気持ちが焦る時などに般若心経を読んだ。

声に出し何度も繰り返し、喉が掠れてカラカラになるまで唱えていた。

初めの頃はその経文の詳しい内容について何も考えていなかった。

ただ言葉を発していただけだった。


色即是空 空即是色
色すなわちこれ空なり 空すなわちこれ色なり


ある時ふと思ったのが、
やたら「空」「無」「不」などが多く使われていて、
漢字のイメージからするとなんだかネガティブな印象だなと思い、
いったいどんな内容でどういう意味なんだろうと疑問が湧いてきた。

気になり始めるとそればかり考えてしまう性格の自分は気づくとネットや
本などを読みあさって解読をはじめていた。


「空(くう)」とはなにを表しているのだろう。


私たちが普段接しているあらゆる物質、物体は認識した
その瞬間過去になり、その状態もまたさっきと同じではない。

固定されたものではないのでその実体もない。

これが「空」の性質だという。

そして世の中のすべてのものがこの「空」の性質で成り立っている
という考えだ。

その存在は「空」であり、常に変化をする性質であるからこそ、
あらゆるものは形を持つことができ、また形を変えることができるのだ。

この世界に固定的なものなどはないと考えている。


いやいや、あるでしょ目の前に。

パソコンや机やギターもある。

食べ物だって珈琲だって目の前にあるじゃない、と反論したいところだが、言われてみれば確かに刻々と変化していく、のかな?

飲んだり食べたりしたらなくなるし、シャーペンの芯も減る。

冷蔵庫や洗濯機だって一生新品同様であるはずがないし、
他にも壊れて捨ててしまうものもあるよね。

ちょっとづつ古くなったり劣化したりしていると言うことなのかな、
と思った。


「空」という性質は、物体だけでなく精神作用にも当てはまる。

すなわち、感覚、知覚、意志、認識といったあらゆる精神状態
実体こそないが、変化すると言う法則の中にある。

つまり、物質も精神作用である心にも、
固定的な実体は存在しないと言うことだ。

自分とはこの身と心であるにも関わらず、
身にも心にも実体としての「自分」が存在しないと言うことなのだ。

「自分」とは脳が作り出した概念であり、
この体と心が自分だと認識させているだけなのだ。

だからそれらは固定的な存在ではなく、
流動的な状態を説明しているだけであって、
結局自分自身も「空」だということだ。


衝撃が強すぎて、しばらく途方に暮れてしまった。

確かに気持ちは移ろいやすいし、
頭の中は喜怒哀楽でめまぐるしく考えている、
体だって成長するし歳もとる。

毎日お風呂で汚れと一緒に皮膚の一部も失われているだろう。

それでも自分は確かに存在しているはずだ。

その自分に「そんな実体などない」と言っているのだ。

どう受け止めていいやらと困惑した。


色=五蘊(ごうん)

五蘊とは、色、受、想、行、識の五つの言葉の意味である
とは、肉体のこと
とは、目耳舌身で感じる感覚のこと
とは、思想のこと
とは、実際に感じて心の移りゆくこと
とは、感じたものに対して是非を判断すること

色即是空の色は、五蘊すべてを代表して言い表している。

思うに、五蘊とは自分の心身の状態のことを指している。

ここでもう一度、色即是空を考えてみる。

心も体も少しも固定した状態にはならない移ろいやすいものであるから
空性である。

確固たる自信を持って
これが自分であると言いきれる様な状態にはなりえない。

確かな存在を持ち得ない自分はまさに空性であるということだ。


自分とは何か、どうあるべきか、いつも考えて生きてきた。

そして悩み、苦しみ、心が壊れたと思っていたのに、
それらは空性であるからはじめからないのと同じだと経文は言っている。

いくら考えても理解できない。

そこで自分はひたすら何度も何度も般若心経を唱えながら
頭で考えることをやめる努力をしはじめた。

初めの頃はどうしても雑念が入ってしまってうまく集中できなかった。

口でお経を唱えているのに頭の中は色んな事を次々思い浮かべては、
あーしてこうしてと気が散っていることに気づいた。

でもこれを毎日しばらくの間続けてみたのだ。

するとだんだん頭の中の声が小さくなっているのを感じ始めた。

毎日、般若心経を7回唱えるのを欠かさず1ヶ月くらい経った頃、
なんだか自分がいつもより落ち着いてる気がした。

7回にかかる時間はせいぜい15~20分程度だ。

その間自分は思考を止めることに成功したようなのだった。

自分自身の変化に自分が一番驚いている。

これは瞑想と同じような効果があったのではないかと思う。

人は誰でも自分の頭の中の声から逃れることはできない。

しかし、繰り返し練習して意図的にその状態に入ることが可能だ
ということが分かった。

一日の内でほんの15分でも思考から解き放たれた状態になることで、
心身にこんなに素晴らしい影響があるんだと言うことを知った。

思考から解放される方法は他にもたくさんあると思う。

自分の場合は般若心経を唱え、
自分が「空」であることをイメージすることでそれを得ることができた。

気になった方は試してみて下さい。

                      おわり。。。


今日も読んでくださった方ありがとうございます。

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田中もなか
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