ヘドロにまみれてしまわないために
書けない
書けなくなった
そう呟いて更新が止まっているnoteが幾つか。
31文字の場合は、「詠めない」になるのかな。
わけは、人それぞれだろうけど、覗かせて貰ってた身としては寂しい。
心持ちを吐露される方も居れば、ただ更新されないという空白期間だけが流れてるだけな方も。
これはネットあるある。
新天地を見つけて羽ばたいて行かれた方もいるだろうし、生業の方が多忙過ぎて物理的な時間が捻出できない方も。
勝手にファンになって、勝手に拝見してるだけだから、もちろんそれに対して文句を言える筋合いなどない。
ただただ、寂しい。
それだけ。
ただ、書けない時は書けない。
31文字なんて、出てこない時はまったく出てこない。
アタシみたいに音数だけ合ってればいいか!っていう輩でさえ。
でも、今止まったら終わりだ
と、思ってる。
止めたあとの再起動の方が、絶対にエネルギーがいる。
アタシは発注されて書いてるわけじゃない。
提出しなきゃならない先があるわけでもない。
良品をお届けしようなんてこと思わなくていい…と。まぁ、元々良品があるのか?って話だけど。
纏まりきらない日々の些細な感情の起伏を、文章には出来なくても、31文字にならアタシは押し込められるってだけ。(なんせ押し寿司ですから)
そのギュっと押し込める作業を止めたら、たぶん鬱々とした感情だけが、肺のあたりで渦巻き続けることになる。
今日も生きています
の代わりの31文字。
これだって、誰に報告してんだ?ってことになるけど。
どこかに提出して、可否を問うたり修正箇所を指摘してもらったりしないとダメなのか?と言う疑問は、いまだにある。
読んで共感を得られれば、それはもちろん嬉しい。
伝わったという気持ちに勝るものなんてきっとない。
少しでも分かってもらえるようにする推敲と認められるためにする推敲に違いはあるのだろうか。
この辺りが、よく分からない。
誰かに師事するとか、結社に入るとか…、この人だ!っていう人に巡り合えたら、何か変わるものがあるのかもしれないけど。
そう言う類のものを一切読まないので、そこらへんは如何とも…。
少し前に、何をどうやっても31文字に押し込められなくて、行き詰まった時に思い出したことがある。
随分と前、中学に上がるかどうかの頃だったように思うけど、雑誌に詩やイラストを投稿したことがあった。
もちろん、一介の少女の落書きが採用されるなんていう夢物語になるはずもなく。けれど、編集の方からとても丁寧な返事が届いた。
細かい内容は忘れたけど、「もっと身近な生活に視点を向けた方がいい」と書かれてあったのだけは覚えてる。
恋に焦がれる年齢だったアタシは、「はぁ?!」って思ったけど、今なら少しわかる気がする。恋愛のレの字も知らない小娘にそんな詩が書けるわけもないこと。
「もっと身近なもの」
出不精の人間に新しいシチュエーションなんてそうそう訪れない。
ホント右足を軸にして左足でくるっと円を描くぐらいの中で生きてる。
そんな中でも見逃してる音や絵はきっとあるはずだと、最近やっと思えるようになった。
卵焼きをまな板の上に出した時や、小松菜をざるにあげた時に立ち上る湯気……
剥いだレタスが掌のように見えたこと、数枚を纏めて手で捩じ切るように裂く時の音や感触……
長芋とジャガイモでは包丁を入れた時の感触や俎板の立てる音の違い、洗濯物の揺れ、散歩中の影の動き…などなど。
今まで生活の流れのひとつでしかなかったものにも、色んな要素が隠れているのかもしれないって。今までちゃんと見も聞きもしてこなかっただけで。
だから、うまくあらわせなくても、愚作や駄作でも、吐き出していかないと、澱になって溜まっていくだけ。
ヘドロにまみれてしまわないように。
だから、今は止まらないって決めた。
誰に迷惑をかけるわけでもないから