人生諦めてた少年が“料理”という武器を身につけ、世界に立ち向かう。
「これって誰のための仕事?」
就職して働き始めると感じていたモヤモヤ。
世の中には直接お客さんと関わる仕事とそうでない仕事がある。どちらが良いとかはないけど、私は直接お客さんと関わる仕事の方が好きだ。
今回は、人に五感で喜びを伝える職業、料理人の丸山卓さんにお話を聴いてきました。見た目はチャラいけど、中身はめちゃめちゃ真面目、情に熱い大阪の料理人、丸山さんの人生観をお楽しみください。
心閉ざしていた青春時代、やりたいことなんてなかった
今の丸山さんからはとても想像できないが、高校時代は心を閉ざし、友達は一人もいなかったという。
「高校に入学してすぐ、1ヶ月ぐらいで停学になっちゃったのよ。駅でタバコを吸っているのを見られて、担任にボコボコに殴られ、親が学校に頭下げにきて、そういう姿を見て、俺やってしまったって気づいた。それがきっかけで、クラスに馴染めず、心を閉ざしてしまったのね。」
思い描いていたキラキラした高校生活とは真逆の現実に、落ち込み、塞ぎ込んでしまった。
「今考えると鬱やったと思うけど、何もする気が起こらんかった。」
初めて大人に褒められ、美大の道へ没頭
そんな丸山少年に、高校2年の時、転機が訪れる。
美術の先生に、描いた絵をベタ褒めされたのだ。心閉ざしていた丸山さんは、この時久しぶりに人との交流が生まれ、心が動いた。
「親にもあまり褒められたことがなかったのに、こんなにも僕のことを褒めてくれて、認めてくれる大人がいる。」
特に大学に行くつもりはなかったが、美術の先生の勢いと、夢中になれる目標が見つかったという喜びで、それ以降、授業後は終電まで美大に行くためのデッサンや色彩の勉強に没頭していった。だが、悔しくも希望通りの大学には受からず、滑り止めで受かっていた大阪芸大の建築科に進むことに。建築の世界は独特で、大学1年目にして挫折。就職活動で最後の望みをかけるも、授業にろくに出ていなかったため雇ってもらえるところは当然なく、あっさりと諦めることに。
料理人への目覚め
二十歳の頃、アメリカに居る叔父さんのところに遊びにいく機会があり、1ヶ月ほど遊びに行った。アメリカで日本人は珍しがられると思っていたけれども、ニューヨークに立った丸山さんに誰も見向きもしなかった。
「日本って、ちっちゃい存在なんだな。日本を知らない奴らがたくさんいる」
海外での日本の存在に可能性を感じた丸山さんは、海外に日本を広めたい思いが沸いたという。どうやったら世界で活躍できるかを考えていた時に、たまたまテレビで日本人が初めてフランスに出店するという番組に出会う。そして、閃いた!
「世界に出るための俺の武器は料理だ!」
美術でもない、建築でもない、一生できる仕事を探していたところに、「料理人」という次の目標が定まった。大学時代に飲食店でバイトしていた経験と、小さい頃からつくることが好きだったので、料理人になることはもしかしたら必然だったのかもしれない……
がしかし、料理人になることを親に報告すると、大反対をされる。この時ばかりは、どんなことを言われても揺るがない丸山さん。こうと決めたら、こうなのだ。
結局は父親もおれ、お店を紹介してもらい料理人の道へ。
叱られても、やりたくなくても、耐えた下積み時代
しばらく父親に紹介されたお店に勤めていたが、徐々に料理をゼロから学ぶには足りない環境だと気づく。お店では結婚式の二次会やパーティーを多く受けていたので、料理だけでなく、パーティの司会や照明演出なども対応していた。
「俺何やってんだろう、これ飲食の仕事ちゃうやん……」
期待していた環境とのギャップが嫌になり、出社するのが億劫になっていった。そしてある時、朝起きられなくなってしまった。出勤時間になっても起きてこないことに気がついた父親が猛剣幕で、階段を駆け上がってきて、部屋に入るなり布団を剥ぎ取り、丸山さんの胸ぐらを掴み上げた。
「お前ふざけんなよ、仕事なめんな!」
普段温厚な人が怒ることほど、与える衝撃は大きい。それ以降丸山さんは心入れ替え、約1年半その店に通った。しかし、限界は見えていたので、仕事しながら次に行くお店を探していた。その時、とあるお店でシェフから厳しい言葉をもらう。
「丸山くんね、僕ら料理人の世界はね、10代から修行していないと僕のようにはなれないよ。君の年齢なら4、5年は人の2倍、3倍勉強しないと追いつけないけど、その差埋めれるの?」
「やばいって思ったね」
その言葉が引き金になり、本気で次の環境を探し出した。だが、次の店に移ってもその焦りはなかなか消えなかった。下処理ばかりする作業に歯痒さを抱えていたが、それでもなんとか続け、ある程度料理を任されるポジションになっていった。それでも、まだ焦っていた。そこで、先輩に相談すると東京を勧められ、大阪で痺れを切らした丸山さんは、当てもないが夜行バスに飛び乗り、東京へ行ってしまった。
人生思うようにはうまく行かない、必然か偶然か、肝心な時に迫られる選択。
「東京で働いてたお店が僕のベースになった。4年ぐらいおったけど遊びもせず、ひたすら家と職場の往復で、彼女も作らんと料理ばっかりしてた。」
不器用なくらい丸山さんの真面目さが伝わってくる。1つのことに集中したら脇目も触れず突き進んでしまうのは、職人気質が宿っているようにも感じられる。
東京で働いたことで人間関係も広がり海外への道筋も見えかけた時、母親から連絡が入った。
「おとんが体調が悪くて入院するかもしれないから、帰って来て。」
「その時、めっちゃ悩んだよね、自分の夢をとるのか、長男として実家に戻るか……で、色々考えた結果、好き放題させてもらったし、そろそろ親の元に帰ろうかなと思って帰った。」
大阪に帰ると、父親は元気ピンピン!母親にまんまと騙されたことを知るが、海外にいくタイミングを逃してしまい、それから海外にいくことはなかった。だけど、大阪に戻ったことは後悔していないという。
30歳で開業、年商10億をめざす!
料理人を目指し始めた頃から、30歳ぐらいで独立を考えていた丸山さん。大阪に戻ってから、しばらく飲食店に勤めた後、33歳で大阪・福島に「鉄板焼きとワイン COCOLO」をオープンさせた。
「当時は10年で10店舗まで増やして、年商10億稼いでやるぞって思っていたけど、そうはならんかった。自分には店舗展開向いてないなって。その分、一店舗ずつ強い店をつくり長く継続させていくのが自分に合ってると思った。」
最初のオープン時から、幸いなことにスタッフを雇っていたため、お店を継続するには関わるスタッフの存在も大事なことだと気づく。料理のことばかり考えていたが、スタッフの魅力が活かせるお店づくりをするようにもなっていった。
お店が軌道に乗ってくると、料理学校から講師の依頼も受けるように。元々面倒見が良く、スタッフの教育係をやることがよくあったという。そんなこともあり、現場に立つことから、外側から関わる立場へと変わっていった。
「40歳になったら、俺は完全に経営に回ろうと思ってた。で、50歳でまた料理したいなって思ってる。俺、ベースは料理人だから最後は包丁を持って死にたい。(笑)」
料理人、経営者、社長、講師、コンサルタント
複数の顔を持つ最強のパパ。
子供が生まれて、さらに父に対する思いが強くなったと話す丸山さん。
「なんか親父ってめっちゃ真面目やねん。基本曲がったことは嫌いやし、全然遊べへんしギャンブルもせん。めちゃくちゃ飲んでたけど、ちゃんと子供の事を実は見てくれてて、家族を愛してたことは感じてるよね。周りからも愛されて、人を大事にする親父、俺はベースとして悪くないなって……。親父のような人生歩みたいって親父に話したこともあった。」
「社会に出れば出るほど、自分のオヤジが偉大だったって気づけた。大嫌いな親父だったけど、大体のターニングポイントで僕の人生に大きく関わってる。」
父親との関係からも丸山さんの人に接する価値観がつくられていると感じる。誰かの悩みや、一生懸命なことに寄り添い、時には厳しく、時には優しく、相手を見守る姿勢は父親のDNAをきちんと受け継いでいる証拠ではないだろうか。
今までの経験が必ず次に繋がっていく、継続することで次の何かに発展する。
スタートは順調ではなかったけれども、料理人を目指して続けてきたからこそ、お店を構えることができ、講師になったり、お店のコンサルをすることに繋がっているという。
「やっている時は本当にこれで合っているのかわからなくて不安になるけど、継続が力になると身をもって体験しているからこそ、不安ながらも続けてる。」
「点と線をつなげるっていうことが大事やなと。人生においても仕事においても、接し点を繋げていったら線になるわけやんか、それに今までやってたこと否定すると自分が可哀想やん。」
今でも海外進出する夢は諦めてないという丸山さん。体験を伴って掴んだ思いはこんなにも人を動かす力があるのだと分かる。新型コロナウイルスの影響で狂うほど辛い時期を過ごしてきたが、そんな時期も見方が変わる良い経験だったという。そんな丸山さんからは、どんな状況でも生き抜く、生命力の強さも感じられた。50歳と言わず、100歳まで長生きしてレジェンド級の料理人になってほしい。
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