罪と罰、現代におけるラスコーリニコフ症候群~涼宮ハルヒを添えて~
少し大層なタイトルになってしまった。
罪と罰に関する記事はいくつもあるが、ここではラスコーリニコフ症候群に焦点を当てつつ、話を展開していこうと思う。
勘の良い人ならすでにお気づきかもしれないが、この記事では多くの人が一度は考えるであろう「自分は特別である」という思想と、その是非について話題にしてみる。
本題に入るまでの前置きは長くなるが、容赦していただきたい。
【ラスコーリニコフ症候群とは】
産経新聞社のコラム記事が分かりやすかったので引用する。
この思想は、ラスコーリニコフ(以下ラスコリ)が記した論文『犯罪論』において詳細に説明されている。
曰く、新しいことを言う天分をあたえられた『非凡人』は、その資質のために、法律を踏み越える許可を自分に与えることができるらしい。
端的に言うならば「ナポレオン主義」である。
引用元のコラムでは、ロシア軍の侵略を主導するプーチン大統領がラスコリ症の患者ではないかと疑われている。
私が読んだ『罪と罰』は、光文社の亀山郁夫訳のものであったが、この訳者あとがきに、ラスコリ症を現代に写し見た、印象深い一文がある。
これを読んだ瞬間「あ、私、小さな神々かも。」と、ぎくりとした。
もしかすると、あなたもぎくり、としたのではないだろうか?
私が思うに、この全貌性の意識は勤勉で、特に論理的思考に長けている人に生じやすい。発端のラスコリも、非常に知的で、理屈っぽい人間である。
まずはそんなラスコリの思想について、掘り下げてみよう。
※以下ネタバレ注意
【『犯罪論』におけるラスコーリニコフ】
人間を『凡人』と『非凡人』のふたつの階層に大別した『犯罪論』を説いたラスコリは、果たして『非凡人』だったのか。
結論から言うに、『凡人』である。
ラスコリは、物語序盤で悪名高い金貸しの老婆を殺害する。
動機を端的に表しているのはこの一文だろう。すでに凡人感がある。
殺人の理由としては、彼曰く「何の役にも立たない有害なシラミ」である老婆を殺害し、そのお金をより良い社会のために用いることである。
しかし本文から読み解くに、そうしたシラミを思いきって排除できるような、強い頭と心をもった勇気ある人間こそが、権力を与えられた支配者になれる、という考えが根底にある。
このような拗らせた精神の根幹には、ニヒリズム的思想が隠れている。
彼は自分を愛してくれる家族や友人がいるにも関わらず、意地になって天井の低く狭い自室に閉じこもっていたがために、自意識がどんどん膨れ上がってしまう。
これに対し、ラスコリの宿敵である予審刑事ポルフィーリーは、核心を突いた発言をする。
何かと反論づくしのラスコリも、これには私たち同様ぎくりとしている。
ラスコリは結局、罪の意識に耐え切れず自白をし、シベリア流刑となるのだが、それでも老婆を殺したことには罪を感じていない。彼が罪として認めているのは、罪の意識に耐え切れず自白をしてしまうような己の卑劣・無能・小心さである。
しかし、シベリア流刑にまで着いてきた、売春婦であり有神論者であるソーニャという娘の無償の愛に、徐々に気づいていく。そしてその感動により、
と、観念にかわって生命が訪れるようになった。
この愛に気づく以前、ラスコリは流刑者達に「不信心者め!」とわめき立てられている。
ここで注目したいのが、ラスコリのシベリア流刑の期間は8年である。これは予想されるよりもかなり軽い刑期で、ラスコリ自身20年を予想していた。
しかし舞台当時に導入され始めていた「一時的な精神錯乱」の理論や、彼の知人による証言や調査から判明した、彼の普段の行いの良さに関する証言から、情状酌量の余地が認められ、大幅な減刑に至ったのである。
そうすると、ますますポルフィーリーの説法の正当性が増してくる。
ソーニャは、ラスコリにとっての救世主=イエス=神であり、その無償の愛に気づいたことで、信仰を見出し、新しい風が生命に吹き込まれたのである。
ラスコリは『犯罪論』についての説明で、以下のように述べている。
彼がどこまで自信をメタ認知できていたのかは定かではないが、結局のところ彼は、第一歩を踏み出すことは出来ても、その先の新しいことを何も成し得なかった、勘違いした『凡人』であったと捉えてよいだろう。
【現代におけるラスコーリニコフ】
しかし私は、ラスコリは『犯罪論』における『凡人』であったとしても、現代日本における「凡人」ではないと考えている。
ここで、『罪と罰』の裏主人公ともみなせるスヴィドリガイロフという人物に触れてみよう。彼については作中で真実に触れられておらず謎多き人物なのだが、妻の殺害疑惑が持ちかけられている事や、ラスコリと惹かれ合っていたことから、何かしらの罪を犯している可能性が推測される。実際、彼は自身を罪深い男と言及している。
そんな彼は、ラスコリの妹であるドゥーニャに求愛するも、拒まれ、『旅』の準備として周囲の人間にかなりの額を寄付する。そして、最終的に自死の道を遂げる。
ラスコリも自死については何度も考えを巡らせている。その思考の場は、ネヴァ川に架かる橋の上であり、スヴィドリガイロフも自殺の前に同じ場所で思案している。
しかし、ラスコリは生の道を歩むこととなった。
似た背景を持つふたりの、運命の分岐点は一体何なのだろうか。
ラスコリが生の道を歩んだのは、先述した通り、ソーニャの無償の愛に気づき、ソーニャを愛し、信仰するに至ったからである。
一方、スヴィドリガイロフは、ドゥーニャに結婚を拒否されている。
つまり、愛による救済が施されたか否かという点で、明らかに異なっている。
『罪と罰』の佳境は、新約聖書『ヨハネの福音書』第11章に記されているラザロの復活をソーニャが朗読するシーンである。
このお話は、簡潔には、病気で亡くなったラザロの墓にイエスが訪れ、神に祈り呼びかけるとラザロが蘇った、という奇跡の物語である。
その中に、以下の台詞がある。
ラスコリは有神論者であり、救世主であるソーニャを愛し、信仰することで、新しい風、生命を享受することができた。
いやいや、スヴィドリガイロフだってドゥーニャを愛していたではないか。
しかし、私が思うにその愛はキリスト教における愛=アガペーではない。
彼は色情狂であり、ラスコリにも堕落した女狂いと罵られている。また、彼が行ったであろう罪やお金の援助は、仮にも社会のため他人のために行ったラスコリとは異なり、私利私欲に結びついている。
つまり、スヴィドリガイロフのドゥーニャに対する愛はアガペーではなかった。そのために、彼は救済を得ることが出来なかったのではないか。
こちらの記事では、スヴィドリガイロフは神に選ばれなかったから救済されなかったのではなく、単にやり方を間違えたからである、という興味深い見解が述べられている。
しかし私はそれも含めて、神の選択ではないかと考えている。
私は、ポルフィーリーが言い放ったこの一文に、ふたりの分岐の解を見い出す。
雑誌に掲載された『犯罪論』を書けるだけの頭脳を持ち、学生のなけなしのお金を他人のために使うことができ、やけどを負ってまで火事から小さな子どもふたりを助け出すことのできる行動力まで持ち合わせている点で、すでに現代社会において「凡人」とは言い難いラスコリ。
(故に老婆殺害事件も起きる訳だが……。)
その人望のためか、ラスコリがどれだけヤケな態度を示し、自らの殺人をほのめかしても、家族も友人も愛想を尽かすことはない。
もし、私たちが現代社会でラスコリと同様の態度をとり、それでも尚、傍にいてくれる人がいたならば、それは非常に幸福なことである。
そういった観点からも、ラスコリは神に選ばれし子だと考えることができ、現代においては「非凡人」の枠組みの中に入るのではないだろうか。
【涼宮ハルヒとラスコーリニコフの共通点・相違点】
ここでやっと涼宮ハルヒの登場である。
これは彼女の有名な台詞だ。
この台詞を発言するに至った経緯として、彼女が小学六年生の時のある体験がある。
父親と訪れた満客の野球観戦において、その空間に日本の人口全員が集まっている様な感覚に陥るも、父親に聞くと概ね五万人くらいだろうとの回答。
要するに、自分という存在のちっぽけさに自覚したのである。
ハルヒほど明確な出来事はなくとも、これを読んでいる皆さんも、その自覚は既に経験しているのではないだろうか。
私は、乗客の多い電車の中や、飛行機の窓から地上を見渡した際に、その感覚が訪れることが多い。
さて、そんなハルヒとラスコリ、どこが一緒で、どこが違うのだろう。
まず共通点として、ふたりとも自己中心的であり、特別に焦がれて行動を起こしている。
ハルヒはSOS団を立ち上げ、ラスコリは老婆を殺害した。(すごい対比…)
ただし異なるのは、ハルヒは上記のように、自分の存在の小ささに気付いているが、ラスコリは気付いていない。
ソーニャの愛には気付くものの、その直前まで殺害を罪と考えておらず、その後の更生の物語は『罪と罰』の中では描かれていない。
もし、ハルヒにこの「気付き」がなければ、ラスコリ症候群に陥り、非凡人として社会道徳を踏み外していただろうか?自らを『小さな神々』として、全貌性に酔いしれていただろうか?
実はこれ、「気付き」があってもYESである。
『涼宮ハルヒの憂鬱』は、現実をありありと描写する写実主義文学としての『罪と罰』とは異なり、SF要素を多く含む作品である。
そのため、ハルヒは無自覚的にではあるものの、なんと世界を再構築する力を持っている。(したがって、その周りに長門や朝比奈さんといった宇宙人、未来人、超能力者が集うし、消失では改変された世界にキョンが飛ばされる)
ここで、元静岡大学教授の岡田安功氏が書いた『涼宮ハルヒの憂鬱 : 非日常性の規範的構造』という論文を参照する。
そう、彼女は『小さな神々』ではなく、実際に神めいた人物なのである。
例えば、コンピューター研究会からパソコンを奪うために、研究会の部長を同じ団員の女性の胸に無理やり触れさせた写真を撮影し、強迫している。これは刑法 249 条の恐喝罪にあたるそうだ。
他にも、『性を超越する存在』『秩序の破壊を許される存在』『違法行為が違法にならない存在』『社会を超越する存在』などの項目で、ハルヒの逸脱性が述べられている。
しかし、彼女は新たなより良い社会のためにそれらの行為を行っているのではない。あくまで自らの特別さ、全貌感に焦がれてやっているのである。
したがって、ハルヒは『非凡人』ではないが、選ばれた「非凡人」であり、''自らのために''、社会的道徳を踏み外す権利を''無自覚に''もっている。
ラスコリも、『非凡人』ではないが、選ばれた「非凡人」である。
しかしハルヒとは異なり、''より良い社会のために''、社会的道徳を踏み外す権利があると''勘違い''していた。
この定義が必ずしも正しい訳ではないが、私はそう考える。
【特別に焦がれること、その是非】
さて、主軸を私たちに移そう。
冒頭で述べたが、自身の特別さについては、多くの人が一度は考えることになる。それは何故か。
思うに、絶望せず、人生に生きる意味を見出すためである。
ハルヒは、自分の存在の小ささに気付いても尚、特別を求めたからこそ、現実を向き合うことができたのである。
このような思想を、積極的ニヒリズムと呼ぶらしい。
ニヒリズムとしての意味で一般に用いられる消極的ニヒリズムは、すべての事象に虚無を見出し、現実の価値を喪失し、絶望する。
しかし積極的ニヒリズムは、現実の無意味さを自覚してもなお、それを受容し、克服しようとする思想である。
しかし、涼宮ハルヒの憂鬱 : 『非日常性の規範的構造』を書いた岡田安功氏は、次のように批判している。
最初こ自身の入れ難かった文章だが、これもまた積極的ニヒリズムの一環として捉えることが出来る。
実存主義を説いたサルトルの言葉に、以下のものがある。
道徳はあらかじめあるものではなく、自らで行動を選択し、作るもの。
実存主義はこのように、人間はまず実存し、その本質を自分で作り上げていくものであるという哲学である。
個々に主体性を要求する点から、大衆の中に埋もれず生きていくための思想とも捉えられている。
要するに、特別に焦がれようが、ちっぽけな存在としての尊さに価値を見出そうが、個人の自由である。
ただし、是非はある。
本質は社会との関わりの中で形成されるものであり、その自由には責任を持つ必要がある。自分の行動を選ぶことは個人の問題ではなく、人類全体の問題へと繋がる。
したがって、ラスコリやハルヒのように、自己中心的な考えで社会的道徳を踏み外してしまうと、実存主義においては道徳的悪となる。
実際、ラスコリの老婆殺害計画は予定が狂い、無関係の娘まで殺害してしまっているし、ハルヒは作中でこそ神的存在であるために見逃されることも多いが、周囲の人間に対して刑法に引っかかるレベルで迷惑を起こしている。
【ラスコーリニコフ症候群でなければよい】
最終的に実存主義の考えに収束したが、結論、特別に焦がれることも、全貌性の感覚に酔いしれることも、何もかも個人の自由であり、道理として間違っていない。
ただし、どれだけ孤独で引きこもりだとしても、この世界に存在している以上、自身が社会の一員である自覚を持つ必要があり、特別に焦がれるが故の自己中心的思想は排除すべきである。
インターネット上の中だけの生活でも、それは社会との関わりであり、その中で個人の、そして社会全体の本質が築き上げられていく。
間違っても、自分が「選ばれた非凡人であり、凡人のために作られた社会道徳を踏み外す権利がある」などと、勘違いしないよう、私も気を付けたい。
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