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高校生「風立ちぬ」を読む

みなさんは「風立ちぬ」をご存知ですか?

宮崎駿の「風立ちぬ」は有名で、僕も観たことがあるのですが、今回はその元となった堀辰雄の小説である「風立ちぬ」についてです。

今作は、恋愛ものとなっており、バレンタインにぴったりと言う事で、本日は「風立ちぬ」の感想と、自分なりの解釈を述べていきたいと思います。

※「考察」からネタバレを含みます。

感想

この作品、原文がフランス語かつ昔の文体なので、節々で訳の分からない言葉が出てくる。例えば「裸根」なんかは、初見では何の事だかさっぱりである。

だんだん裸根のごろごろし出して来た狭い山径を、お前をすこし先きにやりながら、いかにも歩きにくそうに歩いて行った。

風立ちぬ p.4

しかし、そんな難しい表現も、現代技術の結晶「Google」を活用すれば、直ぐに解決できる!

そう思い、検索すると意味はなんと「陰茎」であった。

いや、山道に生えているはずがない。
もしかして、キノコか?キノコなのか?

そんなわけで、もう少し詳しく調べてみると、フランス語版を本人なりに翻訳している方がいらっしゃったので、それと比べてみる事にした。

むき出しの木の根が次第におびただしくからまり合っていく狭い山道を、苦労しながら進んでいった。

堀辰雄『風立ちぬ』のフランス語版を日本語に訳してみる 5

だいぶわかりやすくなった。どうやら「裸根」は剥き出しの木だったようだ。スッキリ。

今作に関わらず、古い小説は難しい表現が多く、読むのも一苦労である。しかし、外来語が目新しかった当時、日本語に翻訳したりカタカナに書き表わす時に、本人のオリジナリテイが現れていて非常に興味深い。

そこが、風立ちぬ含め「名作文学」の醍醐味であろう。



考察

序曲 

節子は、いつも「父」やそのような存在に支配され、自身もそれに身を任せていた。

そんな彼女を自分の「もの」にしようと、主人公はこう心に決める。

節子! そういうお前であるのなら、私はお前がもっともっと好きになるだろう。私がもっとしっかりと生活の見透しがつくようになったら、どうしたってお前を貰いに行くから、それまではお父さんの許もとに今のままのお前でいるがいい……

風立ちぬ p.4

節子が父親とホテルを出た後、主人公は酷い喪失感に苛まれる。

いつも見ていた彼女の姿を、今ではすっかり紅葉付いた白樺の蔭で思い出す。

The wind rises, it is necessary to try to live.

いや、どんだけ好きやねん。

節子の父と話す間、主人公は「白い莟」を気にかける。

まだ花を咲かせず力を溜め込むその姿を、まだ若い彼女と照らし合わせていたのだろう。

四月、元気に見えた節子との楽しい時間をを過ごす。

その姿は、今にも咲きそうなライラックのように、美しく無邪気であった。そして同時に、そこから目を背け、咲く寸前までその事を伝えなかった彼女の姿は、その後の病状への向き合い方そのものだったのだと思う。

風立ちぬ

主人公と節子は、本来なら山の上の新居へ向かうはずだったかもしれない汽車に乗り「サナトリウム」へ向かう。

望まぬ姿で迎えた「新生活」は死の味がする分、一層生の幸福を感じられるものであったたようだ。

そして、あの頃の美しかった「夏」は真夏という生々しいものに変わり、その暑さが節子を襲う。

ひどくなる病気と同時に、死の足音が近づく。

主人公は、彼女の病気が深刻になるにつれ、そこから目を背けるように、山で過ごすようになっていった。

Stand up…!

そばで仕事をしている傍ら、彼女は話す事もせず、じっと主人公を見つめ、時折崩すその顔は、内面に不安の要素を含蓄していた。

そして未だ「父」を求める彼女は、自身の花を持たない、木の先の莟のようである。

そんな事を思う主人公を恐怖が襲う。

顔に乗った手を除けた彼に、彼女は私に抗おうとはしなかった…。

死のかげの谷

住みたかった「森の中の小屋」も、今の彼にとって、それは「死のかげの谷の小屋」である。

彼女のいない小屋の中で一人呟く、

おい、観て御覧、雉子が来ているぞ

風立ちぬ p.41

教会の帰り道、微かな足音が聞こえた。そんな中彼は、レクイエムの最後の数行を口ずさむ…。

節子のいないこの世界を、主人公は徐々に受け入れる。

総括

この小説には「喪失」が2回存在する。一度目は、「序曲」にて節子がホテルからいなくなるシーン。二度目は、「冬」で節子の死である。

どちらも同じ「喪失」なのだが、それぞれ性質が異なっており、一回目は一時的なもの、二回目は恒久的なものである。

一度目は受け止めきれなかった「喪失」を二回目は「死のかげの谷」で乗り越える。いや、乗り越えざるを得なかった。と言った方が正しいのかもしれない。

一回目同様、二回目でも彼女の幻影を浮かべ、やり場のない気持ちをずるずると引きずっていた。

しかし、「」というやり直せない境遇によって、主人公はこの「喪失」を受け止められるようになる。この小説は、そんな主人公の「成長」の物語なのではないか、僕はそう思う。

まとめ

1.古典文学の難解さと魅力
原文がフランス語かつ昔の文体で書かれているため、現代の読者には理解しにくい言葉(例:「裸根」)が多い。一見すると奇妙な訳語(「陰茎」など)も、調べれば「むき出しの木の根」という意味であることが分かる。こうした難解な表現は、当時の外来語や翻訳表現に作者の独自性が表れており、古典文学の醍醐味といえる。

2.作品内の感情と季節のモチーフによる展開
『風立ちぬ』は、節子との関係を通じ、主人公の内面が二度の喪失を経て成長する過程を描いている。「序曲」で節子が父と共に去り、一時的な喪失感と執着に苛まれる主人公は、「春」に未熟な節子を『白い莟』に重ね、希望と病の兆しを感じる。転機のサナトリウムへの旅と厳しい夏を経た後、「冬」には節子の死という恒久的な喪失に直面。その後「死のかげの谷」にてその現実を受け入れて自己の成長を遂げる。この二度の喪失を通して、彼は自身の弱さと向き合い、受容と再生の道を歩む決意を固める。

今後の展望

実はあまり小説が得意ではないんですが、今作を読んでみると、小説も好きになれそうな気がしてきました…!何せ「名作文学」ですから、面白いに決まってると言えばそうなんですが、今作は特に面白いと思えた作品でした!

これを機に、映画の原作小説なんかも、沢山読んでいきたいですね。

これを元に作られたジブリの「風立ちぬ」も、いつか記事にしたいですね。原作と比べれば、見えるものがありそうです。

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