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読書レビュー「テロルの決算」 沢木耕太郎

初版 1982年9月 文春文庫

あらすじ
山口二矢は日比谷公会堂の舞台に駆け上がり、社会党委員長浅沼稲次郎の躰に向かって一直線に突進した・・・。右翼の黒幕に使嗾されたというのではない自立した17歳のテロリストと、ただ善良だったというだけではない人生の苦悩を背負った61歳の野党政治家が激しく交錯する一瞬を描き切る。大宅ノンフィクション賞受賞作。

本作は
昭和35年10月12日、日比谷公会堂で行われた立会演説会で、社会党委員長浅沼稲次郎が17歳の少年山口二矢が握りしめた一本の短刀によってその命を奪われたという、
実際の事件について、被害者浅沼、加害者山口、双方の周囲の人間関係に取材を重ね、その生い立ちから思想や信念に至るまでを真摯に検証し、なぜ浅沼が狙われたのか、山口の動機は何なのか、単独犯か、組織的な犯行か、その謎に迫ろうと試みたノンフィクション作品です。

私はこの事件のことは本書で初めて知りましたが
当時の世相としては山口が元右翼の党員だったこと、17歳に過ぎなかったこと、厳重な警備体制が整っていた中であまりにことがうまくいきすぎたこと、などから何者かに使嗾されたはずだという見方が大勢を占めていたらしいです。
その使嗾した人物として第1に疑われたのが大日本愛国党総裁赤尾敏だったと。
しかしそれを裏付ける根拠や証拠は何一つ挙げられず、使嗾説は推測の域を脱することはなかったということです。
しかしそれでもなお、多くの文化人たちがその推測を妥当と受け入れていた根底には、
右翼に対する軽視、ナチスとアイヒマンのような、狂人と思考停止の猿のような関係性があってほしいという願望のような感覚があったようですが・・・。

沢木さんはそこに疑問を呈し
山口は自立したテロリストだったのではないか、と仮説を立て、
17歳の青年がなぜ1野党の党首を狙ったのか。
浅沼はなぜ狙われなければならなかったのか、
その理由に、単に単独犯か組織的犯行かの謎解きだけではない、
当事者二人の生涯のドラマを見出そうとしているところが圧巻です。

これ以上の細かい内容は読んでのお楽しみとして。

ここからはあえて漠然とした私の偏向的感想として語らせていただきます。
前半から中盤すぎぐらいまでは当時の政局と政治思想の話が多く、私はそのあたり勉強不足で、あまり理解もできず、読むスピードも上がりませんでした。
終盤になって、山口が実際にテロに及んでいくシーンに入ってくると、俄然、緊迫感と臨場感にあふれ、一気に読み進めることができました。
ただ、なにか釈然としない、読後感が残ります。
なんだろう・・・。
いかに著者が丁寧な取材を重ね、両者の人物像に迫ろうとも、
どこか根底に理解しえないものがあるのです。
ほかの人の感想を読んでも、結局なぜ山口が浅沼を殺さねばならなかったのかは解らないというものが多いようですが。
まあ、なんとなくは解かる気もしますが・・・。
ある時、浅沼はこんな発言をします。
「台湾は中国の1部であり、沖縄は日本の1部であります。それにもかかわらずそれぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためであります。アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなしてたたかわなければならないと思います」
なにも知らなかった私としては、こんなことを言った人がかつていたのかと驚きましたが、
冷静に考えれば、時は安保闘争時代の初期、昭和34年。アメリカ追従に反発する世相か高まる中、時の岸内閣は中国敵視政策をとり日中関係は悪化。野党第1党の政策として反アメリカの世論を追い風に中国にごまをすり、日中国交回復を手見上げに政権奪取をもくろむならば、それも理にかなっているとは思えます。
それが右翼にとっては「アカの走狗」「中ソの手先」「売国奴」となったらしいのですが。
実感としてはよくわかりませんが右翼の立場としてはそうなるのかなぁという程度に理解はできます。
右翼が浅沼を敵視する理由はそれでなんとなくわかりますが、本書は、ではそもそもなぜ山口という若干17歳の少年が狂信的な右翼思想に傾倒していったのか、ということについて生い立ちから、長々と検証を重ねていきます。
それをここで説明していると長くなるので、私の偏向的解釈で要約して説明するなら、
山口は体が小さく華奢でいじめられることが多かったようですが、幼いころからいじめっ子とそれにへつらう人間に反発心を持つようになります。やがて、いじめっこ勢力=強者=大勢と思考を転換させていき・・
そんな時に出会った右翼の街頭演説に、大勢(大政)に反発する少数勢力という図式を自身の境遇と重ね、右翼総裁赤尾敏を逆境に立ち向かうヒーローに見たて、憧れを持つようになります。
父親が自衛隊の幹部であったことも右傾化に影響しているというのですが。
なんとなくはわかりますが、私としてはやっぱり釈然とはしないのです。
私は、犯罪者を幼いころの不遇な境遇を挙げて弁護するようなことは、どうも釈然としないのです。
同じような境遇の人間はごまんといるだろうし、そういう人間がみんな犯罪者になるとは限らないし、むしろそうならない人のほうが圧倒的に多いのだから。
まあ、いろいろな偶然と因果が重なって山口が右傾化していったとしても、
そのことは否定はできません。
決定的にわからないのは、違う考えの人間を排除し、殺してもよいと考えることです。
100歩譲って、そこをどうにか理解しようと試みるなら、やはり時代的背景あってこそではないでしょうか。
あの時代や、それ以前の社会背景の中では、人の命よりも主義思想に大儀があったとしてもわからないでもありません。現代でも人の命には限りがあるし、いつ尽きても不思議ではない、あいまいさの上に立っているですから。
それがましてや戦争の時代やそれに近い時代なら、人の命より主義思想を大事に考えるのも必然だったのかなぁとも思えます。
「板垣死すとも自由は死せず」ではないけれど、あの時代以前はそんな心境の人が多かったのかもしれません。命尽きようとも信念は死せず・・と。
過激な安保闘争に明け暮れた学生しかり、連合赤軍しかり、ナチスドイツしかり、一神教の宗教団体しかり・・
人の命を軽視し、異種を排除し、同一思想で統一された世界の構築こそが理想のフロンティアだと純粋に信じているのでしょうか・・・。
私にはそこがどうにも理解できません。
同一思想の人間で統一された世の中なんて、それはそれは怖い世の中だと私は思うのです。