見出し画像

誠実なんてのはクソの役にも立たないってことを証明したい

はじめに
この記事には素人考えの進化人類学が援用されています。真に受けず、研ぎ澄まされた論理展開、筆者の頭脳明晰ぶり、感嘆すべきユーモラスな人間性だけをお楽しみください。


最近、誠実性は姑息への対応策だと気づいた。
つまり、誠実さはあくまで戦略のひとつでしかなく、美質ではないということです。
まあ、今さらですが。

アメンボのオスは水面を揺らし、わざと天敵をおびき寄せることでメスの注意を逸らさせ、そのすきに性行為に及ぶという。
アワメイガという蛾のオスもまた、コウモリが出す超音波を真似して、メスの気を逸らしたすきに飛びかかる。


例をふたつだけ挙げたが、自然界ではこういった姑息な手段はごく自然に行われているに違いない。
生き残れなかったものは消えていき、生き残ったものの特質だけが後世に受け継つがれる。
進化論で考えれば、「生きるためには何でもあり」の勝負に勝ち残りつづけた末路が今を生きる私たちだ。

人類の場合、群れで社会を築いて生活するから、姑息な手段に頼りすぎると群れから追放されるリスクがある。
単独で荒野を生きてはいけぬから、生き残るためには群れに馴染む社交性や群れ全体の利益に奉仕する協調性がある程度必要だ。
社交性や協調性は人類という種が集団単位でうまくやっていくために発達させたものであり、姑息さとはまた別のものだ。
姑息さは人間から消えてなくなりはしない。
また、集団のなかでうまくやっていくためには、他人から姑息に利用・搾取されないような防衛手段も必要だ。

そのために文化は「誠実性」という美徳観を生み出したに相違ない。
姑息さを矛に、誠実性を希求する美徳観を盾にした、
斬っては斬られての終わりなき闘い。
これが人類間で行われている生存競争だ。


つまり、「誠実さ」はそれ自体でなんの価値も持たない。
まわりに「姑息な」ヤツがいることではじめて、「誠実さ」は有用性を持てる。
誠実さはそういった副次的なものでしかない。
ある意味で、誠実な振る舞いというのは姑息なヤツをダシにしたやり方とも言える。

私はかねてより誠実でありたいと願ってきた。
誠実さはなにものにも代えがたい価値があると思っていたからだ。
自分のなかから姑息さを一切排除しようとしていたし、
無意識の死角にひそむ自分の姑息さに気づいたときは、これは仕方のないことだとは思いながらも、その度軽く落ち込んだりした。
これはマッジでなんの意味もない。
お前マジでそれなンンンっの意味もねェから!

それでもなお誠実さに美質をみとめる向きもあるだろう。
そういう意見はチンチンをちょん切れるヤツしか言ってはいけないと私は思う。
ちなみに私はチンチンをちょん切れなかった。
性欲はひとを不幸にする足枷じゃないかと考えながらも、いざ、ちょん切れなかった。
(はい、ちょん切ろうとはしたのです。)
要は「レース」に参加する以上、「ルール」は飲み込むべきだということだ。
たとえば、アメフトをすると決めたなら「手を使うのは卑怯だ」云々とケチをつけるべきではない。
それと同じように、チンチンをちょん切らず生存競争をつづけるならば「ひとは誠実であるべきだ」云々とぬかすべきではない。
レースに参加しながらルールに文句を垂れるのは、それこそ「不誠実」じゃないか!ええ!?
俺たちは「何でもありの勝負ごと」に参加してんだァ!
チョキンチョキンチョキン〜〜っと。



【編者注】
✱1. この文は「純粋な下心で女の子にメールを送れない」という心の病を自癒するために書かれたものです。
つまり、著者本人はどこまでも誠実な人柄をした澄み渡るような青少年です。

✱2. 尚、編者は著者自らが手掛けています。

✱3. 今とてもセックスがしたいです。


◇note出版社  2022年発行◇  

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集