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noteと親友と『愛するということ』
ドイツの心理学・哲学研究者:エーリッヒ・フロム著『愛するということ』。先月、親友が勧めてくれた本だ。
本稿ではこの書籍と、親友についての話をしたい。
その親友とはもう約二十年来の付き合いになる。
“登下校のルートが同じ”という理由で、転校生だった彼と俺は親しくなった。
卒業して別々の進路を歩んだ後も、そこまで頻繁ではないが交流が続いている。
俺たちの性格や趣味嗜好は九割方異なる。
彼は大酒飲み。俺は下戸。
彼は頭がキレる。俺は頭の回転が遅い。
彼は遊び人の素養がある。俺は派手な遊びをしないタイプ。
彼はバンド活動を約二十年続けている。俺は“Fのコード”でギターを挫折した。
彼はV系・パンク・ノイズミュージック等の音楽が好き。俺は激しくないロキノン系が好き。
彼は“やりたい事”だらけで常に熱心。俺は“やりたい事”がそれほど生まれずに燻ってばかりいる。
違うところだらけの彼と俺。それでも付き合いが途切れたことはない。
成人した今でも家に遊びに行ったり、悩みがあれば相談し合う仲だ。
今年の夏、俺たちは久々の再会を果たした。
順風満帆な生活を送る彼に対して、俺は人生における様々な悩みを語った。
以下の記事で述べたように、様々な鬱屈を言語化することで意味付けし、noteで対外発信するようになったことも。
そんな俺に、彼は一冊の本を薦めてくれた。
それがエーリッヒ・フロムの『愛するということ』。
フロムの著作としては最も一般的な本であり、各国でベストセラーとなった。愛する技術は先天的に備わっているものではなく、習得することで獲得できるとする。愛を摩訶不思議なもので解析や説明の対象にならないという考えとは立場を異にする。
(Wikipediaより。一部改変・抜粋)
上記の粗筋の通り、この本は愛を“習得可能な技術”であると定義し、その技術論や愛にまつわる種々の哲学が述べられている。
別に俺は愛に迷っていたわけではないので、何故彼がそのような本を勧めたのか理解に苦しんだ。
とはいえ、親しい人から勧められたものは試してみる主義。意を決して購入し読んでみると、そこには愛の哲学に限らず、様々な至言が書かれていた。
理論学習と修練のほかに、どんな技術をマスターする際にも必要な第三の要素がある。それは、その技術を習得することが自分にとって究極の関心事にならなければならない、ということである。
(p.18)
孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他の一切から切りはなされ、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち物事や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。
(p.23-p.24)
今日の人間の幸福は「楽しい」ということだ。楽しいとは何でも「手に入れ」消費することだ。
(p.133)
本書は1956年──六十年以上も昔に書かれた本ではあるが、数々の文章が2021年を生きる俺に鋭く突き刺さってきた。上記に挙げた“至言”は、そのほんの一部に過ぎない。
特に二番目の言葉は、何かを披露できる場=能力を発揮できる場が欲しくてnoteを使っている俺の為にあるようなものだった。
外界に対して自分の能力を発揮できないことが孤立ならば、noteを続けている限り俺は孤立していないことになる。
文章を書いて投稿した時に満たされる感覚があったのは、きっと気のせいではないのだろう。
親友がそれを意図して勧めてくれたのかどうかは定かでないが、結果的に本書は俺の不安や悩みのいくつかを解決し、胸の内に納得させてくれた。
本そのものにも彼に対しても、ここで等しく感謝を述べたい。
そして思う。俺は誰かが悩んでいる時、それを解決するための本を勧めることができるだろうか──。