見出し画像

時里二郎「『石目』から『名井島』へ」・峯澤典子「果てしない洞からコトカタへ」(『現代詩手帖』2024年7月号)/『時里二郎詩集』/『入沢康夫詩集』

☆mediopos3600(2024.9.27)

『時里二郎詩集』が
思潮社の現代詩文庫(252)として
今年の五月に刊行されている

折良く『現代詩手帖』の七月号で
「散文詩の自由」という特集が組まれ
そこに時里二郎自身による論考および
その詩に関する峯澤典子のそれが掲載されていた

今回はそのふたつの論考から・・・

『時里二郎詩集』には
『胚種譚』(1983)『採訪記』(1988)
『星痕を巡る七つの異文』(1991)『ジパング』(1995)
『翅の伝記』(2003)『石目』(2013)からの詩と
『名井島』(2018)全編が収められている

『石目』(2013)までの詩は
すべて散文詩のかたちをとっているが
『名井島』(2018)では
それまでの散文のスタイルと
行を分けるスタイルの詩とで編まれている

著者自身
『石目』から『名井島』へと
「詩の世界の変容が、どのようにして起こったのか。
実際のところ今でもわからない」というが

『名井島』においては
行分けの詩と散文詩「それぞれの作品を
織物のように編み込むことで、
読むたびごとにテクスチャの柄模様や肌触りが織り出される」
そんな「詩集という言葉の織物(テクスチュア)」のほうに
作者の関心があったという

その変容についてはともかくとして
時里二郎は散文詩を書くにあたって
「「内側でもなく、また外側でもない」という
ロッジアのもつ境界的なスタンス」をとってきた

「ロッジア」とは
「建物の中庭に面する側に作りつけられた
アーケード風の回廊」のことで
「中庭を見渡せると同時に、
室内への眼差しも操ることができる」

そのロッジアのような「境界的な位置取りは、
ちょうど中庭(散文)と室内(詩)との境界
に身を置いていた私の言葉の眼差しに重なる」

それは「散文に「擬態」することによって
詩というものを捉え直す試み」であり

「絶えず散文に対して開いていること、
詩の境界を散文にさらしていること。
更に踏み込んで言えば、
非詩なるものが詩をきたえるということ」

行分けスタイルの詩は余白や行間によって
言葉では表せないもので充たすのに対し
散文スタイルの詩は
それとは逆に
「言葉を過剰に加えて、それがある臨界を超える時に、
一気に積み重ねてきた言葉の世界を
反転させることによって、
余白がもたらすのと同じような詩的感興をかきたてる」
そんなことが意図されているという

そんな時里二郎の散文詩について
峯澤典子は「果てしない洞からコトカタへ」において
入沢康夫の「擬物語詩」の試みを引き合いにだしている
それは物語性をもつ散文詩のことではない

入沢康夫は詩の重要な成立条件として
「詩自身による根底的な自己否定の運動」を挙げているが

「従来の改行詩よりも長さや構造をもち、
詩ではないもの=散文との類似につねにさらされながら
自らの存在と書法を疑い続ける散文詩の方が、
「詩とは何か」を手探る方法として有効だったのだろう」
としている

時里二郎の散文詩も
「単に物語を語るための叙述ではない。
叙述するほどに叙述されるものの全体の輪郭は霞み、
存在は遠ざかり、ときに非在と呼ばれる領域へ
言葉と対象は入ってゆく」

そして『名井島』においては
「「詩とは何か」を問う散文詩の課題を超え、
「言葉とは何か」という
人の生の始原の問いにまで叙述は導かれる」

「この言葉以前の、或いは言葉以後の
実や石や翅を収めたような息の器=「コトカタ」。
それは長い別離の後の再会において、
互いに包みあう散文詩と改行詩の接触面から
ついに生まれる第三の領域ではないか」
というのである

入沢康夫はかつて
「自分の詩を「詩」と「詩でないもの」との
境界に成立させつづけたい」と語った

そこにはいうまでもなく
「詩とはなにか」「詩でないものとはなにか」
という問いがある

そして時里二郎はさらにその境界において
「言葉とは何か」という問いへと向かっている

『名井島』の世界は
「ふと「鳥のかたこと」という句が、
どういう経緯かもしれずに書き付けられた。
と、すぐに息を継ぐ間もなく、
「島のことかた」という句が走り書きに残っている。」
そのことがきっかけになっているという

「言葉以前の、或いは言葉以後の」
息の器としての「コトカタ」・・・

時里二郎は今新たな詩集『伎須美野』を
上梓する準備をしているとのこと
そこでは瀬戸内海の島々を巡る言葉の旅として
言葉を運ぶ箱(舟)に関心が向かっているそうだが
どんな舟になるのか楽しみだ

■時里二郎「『石目』から『名井島』へ/
      組み立てること、解くこと、そして編むこと」
■峯澤典子「果てしない洞からコトカタへ 時里二郎の詩の器」
 (『現代詩手帖』2024年7月号 思潮社)
■『時里二郎詩集』(現代詩文庫252 思潮社 2024/5)
■時里二郎『名井島』(思潮社 2018/10)
■『入沢康夫詩集』(現代詩文庫 第 1期31 思潮社 第5刷 1974/4)

**(時里二郎「『石目』から『名井島』へ」より)

*「「生まれたばかりの赤ん坊を、目を覚まさせずにそっと抱き寄せる母のように、人生は長いあいだ、幼年時代のいまでもまだほの柔らかなままの思い出を、その胸に抱いている。私の幼年時代の思い出を何にもまして心優しく育んでくれたのは、中庭への眺めだった。夏の日には日除けの陰になる、中庭に面して薄暗いロッジアのひとつこと、この都市が新参市民の私を寝かせた揺籃にほかならなかった。」

 いきなり引用から始めたが、実はこのベンヤミンの『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』の一編である「ロッジア」は、私の詩集『石目』(二〇一三年、書肆山田)を構想するきっかけを作ってくらた忘れがたい作品。引用したのは「ちくま学芸文庫版」だが、当初は晶文社版著作集の小寺昭次郎訳を夢中になって読んでいた。元々私は、外国文学の翻訳の日本語を自分の文章を書く規範としてきたこともあって、その翻訳文体を使って、幼年期や少年期を、あるいは人生の特別な体験や思い出を書くことを構想した。ただし、私自身の自伝的な要素はいっさい入れずに、それぞれの作品が、複数の、誰でもない誰かの思い出であり、特別な体験であること。言わば偽の自伝であり、小説擬きや擬物語の断片として書くこと。実はその「偽」「擬」を意識した散文スタイルにすることによって、そこに「詩」というものの色濃い翳を投影させることができるのではないかと考えたのだった。

「ロッジア」というのは「建物の中庭に面する側に作りつけられたアーケード風の回廊で、庭側には壁がなく、列柱が並んでいて、バルコニーのように使われる」と、これは岩波文庫版に訳注がある。風が通い、夏には日除けの陰になって、彼の幼年の揺籃となったのだが、ロッジアはまた、中庭を見渡せると同時に、室内への眼差しも操ることができる。内側でもなく、また外側でもないというロッジアのような境界的な位置取りは、ちょうど中庭(散文)と室内(詩)との境界に身を置いていた私の言葉の眼差しに重なるものだった。」

「「「内側でもなく、また外側でもない」というロッジアのもつ境界的なスタンスを、ぼくは詩に対してとってきた。それは散文に「擬態」することによって詩というものを捉え直す試みと言い換えてもいい。詩は絶えず散文に対して開いていること、詩の境界を散文にさらしていること。更に踏み込んで言えば、非詩なるものが詩をきたえるということ。「ベルリンの幼年時代」のようなベンヤミンの散文は、どんなすぐれた詩を読むよりも、その断片の切り口からしたたり落ちるポエジーの闇の濃さとまばゆさに絶望し、また励まされる。」(個人誌「ロッジア」創刊号あとがき)

「「非詩なるもの」をおそれずに————たとえば、『石目』所収の作品は原稿用紙で二十枚、三十枚にも及ぶものがほとんどで、中には本文と変わらぬ分量の注釈が添えられる作品もある。これは常識的にはとても詩と呼べるものではない。しかし、その長い散文擬きの、あるいは物語の断片のような作品を読む行為が、通常の詩を読むときに感じる情感とは異質な、しかし確かに詩のほかの何ものでもないという情感を呼びさますことができると考えた。行分けスタイルの作品は、言わば言葉を減じて余白や行間を、言葉では表せないもので充たしてゆく。一方で私の考える散文スタイルの作品は、逆に言葉を過剰に加えて、それがある臨界を超える時に、一気に積み重ねてきた言葉の世界を反転させることによって、余白がもたらすのと同じような詩的感興をかきたてる。行分けの作品が生み出す余白とはまた異なる詩の充満した空域を生み出すことができるのではないかと考えたのだった。」

*「『石目』から『名井島』(二〇一八、思潮社)への詩の世界の変容が、どのようにして起こったのか。実際のところ今でもわからない。」

「構文や文法的な約束、それに意味作用の結構をできるだけ忠実に取り入れて書いた散文のスタイルとは全く異なり、意味の重さを拭われた各行が、次の行へ意味をほとんど渡さず、それを置き去りにしたまま次の行が始まる。各行の意味の重力が下へ降りてゆかないように、言葉を着地させないように、言葉の息を手で捉えるように書く。しかし、全く無秩序な自動記述かと言えば、見えない約束の磁場が淡くかかっている。約束の磁場————あるいは言葉の呼吸と言い換えてもいい。それは耳の奥に潜りこんで、言葉の息遣いを聞いて、それを手に移すだけだ。耳の奥で聞こえる言葉の呼吸を増幅したり、絞ったりしたチューニングすることは私が行っている。詩として成立させるための修復は行っている。しかし、それもあくまでも書き付けた言葉の意思をそこなわないようにという配慮を施している。」

*「言葉は誰のものか。少なくとも私のものではない。むしろ、私が言葉の中にいると考えるほうが理にかなっている。言葉は私が生まれる前にすでにあり、詩を書く私は言葉を授かることで、言葉の中に生まれた私にほかならない————すなわち言葉という身体を持つ私である。

 詩を書いているのは誰なのか————。言葉という身体の私とは誰なのか。名井島という修復不可能な不具合を見に負う、言語系アンドロイドのサナトリウムの島という構想は、そこから生まれた。さらに言葉を私(ヒト)から遠ざけるために、アンドロイドを制作したのが人工知能であるという設定にした。このあたりは物語的な要素を織り込みながら、散文のスタイルを施してある。

 従って、『名井島』は行を分けるスタイルの詩と、『石目』までの散文スタイルの作品とが混じり合っているが、それぞれの作品を織物のように編み込むことで、読むたびごとにテクスチャの柄模様や肌触りが織り出されるようになっている。私の関心は、散文とか行分けとかいうスタイルよりも、詩集という言葉の織物(テクスチュア)のほうである。詩集を編むことが、そもそも詩を創ることなのではないかと考えるようになった。」

**(峯澤典子「果てしない洞からコトカタへ 時里二郎の詩の器」より)

*「散文詩の重要な書き手の一人である入沢康夫はかつて「擬物語詩」という考えを表した。それは単に物語性を持つ散文詩のことではない。通常の散文(小説)と同様に持続性や展開や叙述性を持ちながらも、それらに散文とは違った秩序を与えるための試みであり、リライトが不可能な「擬叙述」を備えたものであると。なぜ散文詩か。「詩は「詩自身による根底的な自己否定の運動」をきわめて重要な成立条件としている」(「詩についての三つの断章」)と考えた入沢にとって、従来の改行詩よりも長さや構造をもち、詩ではないもの=散文との類似につねにさらされながら自らの存在と書法を疑い続ける散文詩の方が、「詩とは何か」を手探る方法として有効だったのだろう。」

*「時里二郎の散文詩も単に物語を語るための叙述ではない。叙述するほどに叙述されるものの全体の輪郭は霞み、存在は遠ざかり、ときに非在と呼ばれる領域へ言葉と対象は入ってゆく。たとえば初期の『胚種譚』における「荒ぶるつわもの」の伝説や流浪の石の工匠の不確かな来歴、「非在の樹」という名の肖像画。そして『採訪記』内の非在の植物、昆虫、鉱物、地誌、人物の痕跡。それらは繊細な息遣いと陰翳とともに詳細に書き込まれる。

「ダルレス 午後の廃園の微睡を乱すリラの花の白い情欲が噴きこぼれている噴水の傍でわたしは微かに匂うおまえの静脈を梳くように、おまえの衣裳を脱がしながら間遠な鳥の声を聞いている。//開けていくおまえの背はその中程を走る直な骨脈に縫合された、そよぐ草とてない未生の丘陵である」(「ダルレス 或いは記憶の地誌」)

 非在である少年(或いは地誌)の像を描こうとするこうした断片の、リライト不可能なあまりに優美で精緻なディテール。それらをいくら集めても非在という不可視の像をわたしたちは見ることはできない。散文詩とは、永遠に歓声されない全体の部分であり続けること。この試みは、決して触知できない存在を、ある部分(断片)を通して求め続けるフェティシズムを連想させる。ジョルジョ・アガンベンは著作『スタンツェ』(岡田温司訳)で、全体の代用になり得るフェティッシュ(部分)は「無限に置き換わりうる何ものか」であると語り、複数の芸術家が「完成されたあらゆる作品が必然的にある種の限界に縛られているのに対して、断片のみがその限界を免れていると考えていた」事実についても記した。

 時里二郎の非在という無限へ向かう「部分」の美しい集合体は、木の実や種子や石、鳥や昆虫や人形といった物への偏愛を宿しながら、数冊の詩集を編みあげ、いつしか「洞」という言葉と時空へと吸い込まれてゆく。

『翅の伝記』では、ura(ウラ、浦、裏)という言葉を起点もしくは境界線として、幻の昆虫の姿や南洋の島嶼の伝承などが、論理的でありながらも論理の破れ目からふっと色香を滲ませる独特の文体で綴られる。ここでは南方の植民地に赴任したある日本人官吏と、彼の所持していた標本画を入手した「ぼく」の過去と現在の語りが錯綜し、語り手たちの記憶が揺らぐにつれ、語るという行為自体も揺れ始める。そのとき散文詩という器も語るということの揺らぎに合わせて、果てのない「洞」となる。

『石目』では、それまでよりも意味が摑みやすく明瞭な輪郭を持つ文体が選ばれている。しかし描かれる像が鮮明になったと思えた途端、語り手は彼ではない「だれか」にふいに置き換えられる。たとえば「森屋敷」では、森の中での記憶がだれにものなのか曖昧になり、「とりかい観音」では、語り手は「あんた かんのんさんにとりかえてもろうたこやな」と唐突に告げられてしまう。語り手の主観も出自も不明となるなかで、言葉だけが「洞」へと一心に注ぎ込む。語り手と書き手自身の私性を脱いだ言葉だけがそこにはある。『石目』の稠密な言葉の流れは、「洞」を隙間なく埋めるための文体なのだろう。

 そして「ヒト」ではない者たちが語る『名井島』では、語り手や語る行為の内と外にある複数の「洞」が多層的に交差し、彼らが用いる言語という構想物自体の出自も揺らぎ始める。つまり「詩とは何か」を問う散文詩の課題を超え、「言葉とは何か」という人の生の始原の問いにまで叙述は導かれる。とくに目を引くのが詩集冒頭の改行詩や、散文詩に挿入される改行部分の音、韻律、色と姿の存在感だ。

「無音の耀く波がわたしの口を濡らす//この島も ここから見える島も まるで 海の息づきのようだ//くふ さほ みり つむ いき//いそ むす けし あは うみ」(「伯母」)

 この言葉以前の、或いは言葉以後の実や石や翅を収めたような息の器=「コトカタ」。それは長い別離の後の再会において、互いに包みあう散文詩と改行詩の接触面からついに生まれる第三の領域ではないか。そう夢みるための終わりなき「洞」を現在唯一持つ。それが時里二郎の散文詩、いや、「詩」だ。」

**(『入沢康夫詩集』〜「詩についての三つの断章」より)

・1 詩人の仕事(「読売新聞」一九六九年三月三〇日)

*「詩について語ることはむずかしい。」

「「詩人が、ある表現したいもの(感情・印象・思想・意見など)を心にいだき、それを読者にどうしたらうまく伝えられるかと苦心しながら一つの作品にまとめ上げ、読者はそれを読むことによって、詩人の心にあったものをまざまざと感じとる」という図式は、一見いかにももっともらしいが、現代の詩人はこのような図式を信じてはいない。」

「日常の言葉は、それを「発する者」と「受けとる者」と、そして状況との、三者の関係において意味を持つのだが、詩作品の中では、言葉はこのような関係からいったん切り離された「だれも語らぬ言葉」「語り手のない言葉」として出現し、あらためて相互に関係づけられて、いわば「意味を超えた意味」のうつわになろうとするのだ。」

「私はいわゆる叙情詩を否定しようとするものではない。ただ、どうしても言っておきたいのは、いかにも作者の感懐が書きつづられているように見える詩においてさえも、作品中の「私」と作者の間には、根本的な断絶があるのだという点である。

 しかしこれは、詩を現実から切り離し、芸術至上主義の象牙の塔に閉じ込めることではない。むしろ、このような手続きを経ることによって、詩はより深い真実に肉薄できると言いたい気がする。」

・2 私にとっての詩(「読売新聞」一九六九年五月六日)

*「さしあたって私が、自分のこれから書こうとするもの、書くであろうものについて言えることは、次の二点に尽きている。

 第一に、自分の作品を、常にいわゆる「詩」と「詩でないもの」との境界において成立させようとすること。言いかえれば、いかにも「詩らしい詩」は、断じて書くまいと堅く心に決めること。そしてこれは、何も異を立てるために異を立てるといった決意ではないことを、直ちに付け加えておきたい。」

「私には、詩は「詩自身による根底的な自己否定の運動」をきわめて重要な成立条件としていると考えられてならないので、自分の詩作品が歌壇の中のおようぎのよい花であることは、そのこと自体によって、詩の自殺行為であるとしか思えず、それゆえにこそ、いわゆる「詩でないもの」の場に、強引に詩を成り立たせたいのである。」

「第二に言えることはこうだ。私は自分の詩を「詩」と「詩でないもの」との境界に成立させつづけたいと述べたが、それは単純な言語破壊や文法無視、散乱する異常なイメージの自己増殖的な羅列といった、みるからに「破壊的」な方法によるのではなく、むしろ、ある程度ありふれた言葉づかいや、場合によっては物語ふうの筋立てや、ある種の論理的一貫性や描写性、そういったものをアリバイとして積極的に活用することによって、つまり一見「構築的」な方法をとることによって、そうしたいと考えているのである。」

いいなと思ったら応援しよう!