奥野克巳「縁起あるいはアニミズムの他力性」(『談 no.130 トライコトミー』)/岩田慶治『アニミズム時代/中沢新一『レンマ学』/ティム・インゴルド『人類学とは何か』
☆mediopos3556(2024.8.14)
mediopos3549(2024.8.7)でとりあげた
『談 no.130 トライコトミー』から
ふたつめのインタビュー
奥野克巳「縁起あるいはアニミズムの他力性」について
奥野克巳はマルチスピーシーズ人類学の研究者で
『談』no.118でもそのインタビューを
mediopos-2154(2020.10.9)でとりあげたことがある
奥野克巳の「マルチスピーシーズ人類学」についてはこれまで
『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして
人類学者が考えたこと』(亜紀書房 2018.6)や
人類学を軸とした思想誌『たぐい』
(vol.1-4 2019/3-2021/10)をはじめ
『絡まり合う生命——人間を超えた人類学』(亜紀書房 2021/12)
奥野 克巳『人類学者K』(亜紀書房 2022/12)
奥野克巳『はじめての人類学』(講談社現代新書 2023/8)について
medioposでも随時とりあげてきているが
今回のインタビューでは
アニミズムおよび仏教の縁起の思想及び
その他力性について語られている
マルチスピーシーズ民族誌は「従来の人間中心の世界観から脱して、
あらゆる生物種(マルチスピーシーズ)は
人間にとって単なる対象ではなく、それらすべての絡まり合いとして
この世界はできていると捉える考え方」であり
「「自然」と「人間」というような従来の二項対立的な考え方を
更新していく、新しいパースペクティブ」として展開されている
『今日のアニミズム』の第一章
「アニミズム、無限の往還、崩れる壁」で示唆されているように
中沢新一の「カイエ・ソヴァージュ」の論旨に依拠しながら
奥野克巳は「メビウスの帯」を使ってアニミズムを説明している
「メビウスの帯の「裏表なく延々と続く」構造は、
浄土教の教えのなかの「還相」、
つまり一度死んで極楽に往生した者が、再び現世に還ってきて、
一切の衆生を仏道に導くというように、
生死の境を「往還」するような「動き」に相応」し
「そのダイナミックな「動き」のなかに、
アニミズム的な経験がある」という捉え方であり
さらに「メビウスの帯が裏でも表でもあるように、
アニミズムを構成するのもさまざまな要素からなる
「アマルガム」であり、それは因果的な生起の関係ではなく、
同時的、共時的に存在しているという捉え方」である
さてアニミズムについては
一九世紀においてイギリスの人類学者エドワード・タイラーが
一八七一年の著書『原始文化』で提唱した
「あらゆるもののなかには魂、あるいは精霊が潜んでいる」
という定義があったが
アニミズムは長く人類学の研究対象から外されていた
タイラーのいう精霊信仰は
「たとえば樹木は物質」に「人間の精神を投影して、
霊性や、ある種の人格を感じ取る」ような
「精神」と「物質」や「人間」と「非人間」といった
二項対立的な図式が背景にあったのに対し
デスコラやヴィヴェイロス・デ・カストロたちは
その二項対立を超えるアニミズム理解への検討を始める
そこで重要なのが「メビウスの帯に象徴されるような
「動き」であり「シンクロニシティ」」である
そうしたアニミズムへのアプローチは
「これまで極めて人間本位にこの世界をつくりあげてきた
という歴史」からの反省でもあったが
「人間はたくさんある種のなかの一つの種である(に過ぎない)
という視点から、人間中心ではないあり方を探ろう」とするのが
マルチスピーシーズ人類学であり
新たなヴィジョンのもとでのアニミズムであるといえる
さて「同時性」あるいは「シンクロニシティ(共時性)」という
アニミズムの視点に関し
奥野克巳は上記の「アニミズム、無限の往還、崩れる壁」に
岩田慶治の独自のアニミズム論から
「アニミズムは禅に近く、シャーマニズムは浄土教に近い」
という言葉を引用している
奥野克巳によれば
「岩田さんが「シャーマニズムは浄土教に近い」と言うのは、
つまり浄土教に言う「還相」をイメージされてい」て
「岩田さんがアニミズムは禅に近いとおっしゃっているのは、
アニミズムは禅と浄土教の両方をはらんでいる」
そして「その上にシャーマニズムがあると考え」ているのだという
中沢新一は『レンマ学』において
「因果律で結びついている表層的な現実の下に、
このような偶然の集積がレンマ的結合によって相互関連しあう、
別の存在領域が活動を続けている」と捉え、
それこそがアニミズム的な世界だと」示唆しているが
それは岩田慶治のいう「同時」ということでもある
そうしたことをふまえながら奥野克巳は
「主体的な「自力」だけではなく、別の力が働いていて、
自分自身にとっては「他力」もあるということに
想像力を働かせることがアニミズムのなかにある
「他力」を考える出発点になるのではない」かと示唆を加えている
「人間の「自力」がすべての世界をつくり
コントロールすると考えるのではなく、
そうじゃない何か別の力が働くことでこの世界は成り立っていて、
われわれはその力、すなわち「他力」のなかで生かされている
ちっぽけな存在である」
「そういう視点も必要なのではない」かといい
そしてそれこそがアニミズムの本質ではないかというのである
■奥野克巳「縁起あるいはアニミズムの他力性」
(『談 no.130 トライコトミー …二項対立を超えて』水曜社 2024/8)
■奥野克巳・清水高志『今日のアニミズム』(以文社 2021/12)
■奥野克巳『絡まり合う生命——人間を超えた人類学』(亜紀書房 2021/12)
■岩田慶治『アニミズム時代』(宝蔵館文庫 2020/9)
■中沢新一『神の発明(カイエ・ソヴァージュⅣ)』(講談社選書メチエ 2003/6)
■中沢新一『レンマ学』(講談社 2019/8)
■ティム・インゴルド(奥野克巳・宮崎幸子訳)『人類学とは何か』(亜紀書房 2020/3)
**(奥野克巳「縁起あるいはアニミズムの他力性」より)
*「・・・・・・マルチスピーシーズ民族誌は従来の人間中心の世界観から脱して、あらゆる生物種(マルチスピーシーズ)は人間にとって単なる対象ではなく、それらすべての絡まり合いとしてこの世界はできていると捉える考え方だと思います。先生は、それは今日の「アニミズム」の考え方に非常に似ているとおっしゃっています。
マルチスピーシーズ民族誌にしても新しいアニミズムの考え方にしても、それらは、たとえば「自然」と「人間」というような従来の二項対立的な考え方を更新していく、新しいパースペクティブで語られているのではないかと思います。『今日のアニミズム』の第一章、奥野先生が書かれた「アニミズム、無限の往還、崩れる壁」と題された論文で中沢新一さんの論旨に依拠しながら、「メビウスの帯」を使ってアニミズムを説明しておられます。まずはその辺りから、アニミズムとはどのような世界観なのかお話しいただけますでしょうか。」
*「中沢さんはそのようなメビウスの帯に「生者の世界」と「死者の世界」が流動的に連続しているアニミズム的な世界を見て取るわけですが、ここで重要なのは「動き」ということだと思います。それは仏教において前世の悪行の報いとして現れる「業」の考え方とも通じ合います。とくにメビウスの帯の「裏表なく延々と続く」構造は、浄土教の教えのなかの「還相」、つまり一度死んで極楽に往生した者が、再び現世に還ってきて、一切の衆生を仏道に導くというように、生死の境を「往還」するような「動き」に相応します。アリの歩みのように、それをどんどん繰り返していくそのダイナミックな「動き」のなかに、アニミズム的な経験があるという捉え方です。
もう一つは「同時性」あるいは「シンクロニシティ(共時性)」です。これは禅宗で道元などがいう「同時」や「無時」にあたると思いますが、メビウスの帯が裏でも表でもあるように、アニミズムを構成するのもさまざまな要素からなる「アマルガム」であり、それは因果的な生起の関係ではなく、同時的、共時的に存在しているという捉え方です。」
**(奥野克巳「縁起あるいはアニミズムの他力性」
〜「アニミズムを更新する新しい考え方」より)
*「・・・・・・一般にアニミズムというと、あらゆるものには魂があり、神、あるいは精霊が宿るという考え方だという印象ですが、アニミズムを「動き」や諸要素の「アマルガム」と捉える視点は従来から人類学にあったのでしょうか?」
*「それは、レヴィ=ストロースの弟子だったフランスの文化人類学者フィリップ・デスコラやブラジルの人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロなどが、一九八〇年代に南米のアマゾンに住む先住民のフィールドワークをとおしてアニミズムを再検討したところからのさらなる発展形です。
アニミズムは、もう長い間人類学の研究対象からは外されていました。というのも、もう少し溯って一九世紀には、イギリスの人類学者エドワード・タイラーが、一八七一年の著書『原始文化』で提唱したアニミズムの定義がありました。(・・・)
タイラーのいう精霊信仰は、あらゆるもののなかには魂、あるいは精霊が潜んで居るという考え方です。つまり人間がもっている精神が、そうではない物質のなかにあると考える。たとえば樹木は物質ですが、そこに人間の精神を投影して、霊性や、ある種の人格を感じ取る。そこには「精神」と「物質」、あるいは「人間」と「非人間」という二項対立的な図式があるわけですが、その二項対立をなんとか乗り越えて、もっと普遍的にアニミズムを定義できないかということを視野に入れて、デスコラやヴィヴェイロス・デ・カストロたちがその再検討を始めたわけです。
・・・・・・その二項対立を超えるアニミズム理解として重要なのが、冒頭のメビウスの帯に象徴されるような「動き」であり「シンクロニシティ」ということなんですね。
ええ、とくに動きのダイナミズムですね。デスコラやヴィヴェイロス・デ・カストロたちのアニミズム論で興味深いのは、「人間」と「自然」、つまり「主体」と「客体」の関係性を「同定化(アイデンティフィケーション)」という現象学の用語を使って説明しようとしたことでした。彼らは「主体」と「客体」の関係を「内面性(インテリオリティ)」と「身体性(フィジカリティ)」で捉えようとしました。これは簡単に言うと「精神」と「物質」なんですが、それを対立的な二項としてではなく、その二項の間にある関係性のなかで考えようとしたわけですね。
つまり彼らの定義によるとアニミズムは、人間(主体)とモノ(客体)の関係について、「内面性」では主客が連続しているのだけれども、見かけという「身体性」が違う、というわけです。「内面性の連続性」と「身体性の連続性」。人間のからだと樹木は物質としての見かけは違うのですが、われわれが何か悲しんだりものごとを考えたりする内面性をもっているように、樹木もまたそのような、悲しんだり考えたりする感情や情動をもっていると、そんなふうに説明しています。
こうしたアニミズムの考え方は、イギリスの社会人類学者であるティム・インゴルドに継承されていきます。彼は若い頃から「自然」と「社会」を切り分けて考える二項対立的な思考法に違和感を抱き、「生きている」をテーマとして対象をより動態的に捉えようとしました。対象を調査し何かを「抽出」するのではなく、対象に積極的にかかわる「参与観察」をとおして「ともに考える」あるいはインゴルド自身の言い方に倣えば、現象を「生け捕りにする」というふうに、人類学の態度を大きく変えます。」
**(奥野克巳「縁起あるいはアニミズムの他力性」
〜「人間中心主義から脱出するためのアニミズム」より)
*「レヴィ=ストロースの弟子、とくにデスコラが、対象との関係のあり方(同定化)のパターンとして見つけ出してきたのがアニミズムでした。先ほどお話ししたような「客体が主体と類似する内面性とは異なる身体性をもつ様式」ですね。アニミズムだけではなくパターンはぜんぶで四つあり。「トーテミズム(主体が客体との間で類比的な身体性と内面性をもつ様式)」、「ナチュラリズム(客体の内面と身体性が共に主体自身のものと著しく異なる様式」、「アナロジズム(客体が内面性を欠くが、同種の身体性をもつ様式)」の四現象で、デスコラは人間と自然の関係を再定義しようとしました。」
*「・・・・・・そこで先生のなかで、ご自身が薦められてきたマルチスピーシーズ民族誌と新しいアニミズム論が重なってくるわけですね。
というのも、人間はこれまで極めて人間本位にこの世界をつくりあげてきたという歴史があり、その反省があるからです。」
「人間本位で開発を進めてきた私たちのこの社会、あるいは地球は、今、大きな危機を迎えています。その危機に向き合うためんはどんな思想が求められるのか、その一つがマルチスピーシーズの考え方です。人間はたくさんある種のなかの一つの種である(に過ぎない)という視点から、人間中心ではないあり方を探ろうとしてきました。そして、私が考えるもう一つがアニミズムです。」
「アニミズムは宗教的なものとみられがちですが、私は宗教として見る必要は決してなく、人間に備わったごく普通の考え方だと思いっています。」
**(奥野克巳「縁起あるいはアニミズムの他力性」
〜「非因果的なアマルガムとしてのアニミズム」より)
*「・・・・・・ここからは第二の視点である「同時性」、あるいは「シンクロニシティ(共時性)」というアニミズムの視点についてお話しいただきたいと思います。奥野先生は『今日のアニミズム』の冒頭の「アニミズム、無限の往還、崩れる壁」で、日本の人類学者である岩田慶治さんが展開された独自のアニミズム論から、「アニミズムは禅に近く、シャーマニズムは浄土教に近い」という言葉を引用しておられますね。(・・・)
アニミズムの探求に一生を捧げた岩田さんは、日本の曹洞宗の開祖である道元が著した仏教書『正法眼蔵』を携えて東南アジアの辺境でのフィールドワークを続けました。私がアニミズムと仏教思想のつながりに着目していくようになったのも、岩田さんの影響が大きかったと思います。」
「アニミズムでは「目に見える世界」と「目に見えない世界」は表裏なくつながっていて、その両方を行き来するのが宗教的な専門家であるシャーマンであり、このシャーマンによってシャーマニズムが形成されているわけです。岩田さんが「シャーマニズムは浄土教に近い」と言うのは、つまり浄土教に言う「還相」をイメージされていると思います。(・・・)岩田さんがアニミズムは禅に近いとおっしゃっているのは、アニミズムは禅と浄土教の両方をはらんでいるといふうに私は解釈しています。その上にシャーマニズムがあると考える。」
*「私たちの日常では、先にそのことがあったから今のこのことがあるというような因果律に沿った考え方が一般的です。中沢新一さんは、それは極めて表層的な現実認識であるとした上で、「因果律で結びついている表層的な現実の下に、このような偶然の集積がレンマ的結合によって相互関連しあう、別の存在領域が活動を続けている」と捉え、それこそがアニミズム的な世界だといいます。つまりそうした因果律ではないが相互に関連し合う世界が、岩田さんの言う「同時」なんですね。」
**(奥野克巳「縁起あるいはアニミズムの他力性」
〜「向こうからくる「他力」の恩恵を受け取る」より)
*「岩田さんにとってアニミズムとは、私たちがごく日常的に親しんでいる因果律が積みあがって現在があるとする表層的な現実が、ユングのいうようなシンクロニシティ、つまり非因果的連関の原理で成り立つような「事々無碍」の世界、それ自身独立しながら相互の影響し合っている「別の存在領域」と出会った時に現れる「一瞬の世界」だといいます。そこにこそ「カミ」は立ち現れてくるのだ、と。」
*「主体的な「自力」だけではなく、別の力が働いていて、自分自身にとっては「他力」もあるということに想像力を働かせることがアニミズムのなかにある「他力」を考える出発点になるのではないかと思います。人間の「自力」がすべての世界をつくりコントロールすると考えるのではなく、そうじゃない何か別の力が働くことでこの世界は成り立っていて、われわれはその力、すなわち「他力」のなかで生かされているちっぽけな存在である、と。そういう視点も必要なのではないでしょうか。とくにフィールドワークで自然のなかにはいっていくと、強くそう感じられます。
・・・・・・先生はそれこそがアニミズムの本質ではないかとお考えなんですね。
ええ、アニミズムが人間を地球の主人(主体)として置かない考え方だとすると、これは、地球上には人間だけではないさまざまな種がいることを強調するマルチスピーシーズ民族誌の考え方とも重なります。彼らの方から私たちに恵みを与えてくれるという考え方もそうですね。」
*「ヴィヴェイロス・デ・カストロがパースペクティヴィズムとして示そうとしたアニミズムは、単にこちら側の人間(主体)が向こう側の動植物(客体)を想像する(思いやる)だけではなく、向こう側に踏み込んでいって、向こう側から私たちが、世界がどう見えているかということに想像力を及ぼすという、主客の関係を超えた視点の獲得ということだと思います。もちろん単純に図式化することはなかなか難しいと思いますが、そう考えるならば、アニミズムは人間本位でつくられてきた私たちの世界を相対化する、一つの手がかりとなり得ると思います。」
**(奥野克巳「縁起あるいはアニミズムの他力性」
〜「「往還」することで壁を消し去っていく」より)
*「・・・・・・動植物ばかりでなはなく、先生はご著書で「命が石のなかにあるではなく、石が命のなかにある」というインゴルドの言葉を引用しておられますね。ここでは「包むもの/包まれるもの」の包摂関係が入れ替わっていますが、そうして次元を入れ替えながら世界の見方を拡張していくことも、アニミズムを理解するためには重要ではないかと思います。」
*「インゴルドが言う「石が命のなかにある」というのは、「命」はどこにでもあって、そのなかに石もあるということだと思います。つまり、先住民の人たちの価値観に沿って、これまでの私たちのものの見方をひっくり返せと言っているわけです。」
*「インゴルドは、アニミズムとは「詩学(ポエティック)」なんだとも言っています。「生」そのものの実感は、想像力や空想力を最大限広げないと見えてこない。もちろん科学では捉えられない。そういう世界を見るのがアニミズムだということなんです。」
**(奥野克巳「縁起あるいはアニミズムの他力性」
〜「アニミズムを仏教の「縁起論」で考えてみるより)
*「・・・・・・最後にお聞きしたいのですが、仏教における「縁起」の考え方は、アニミズムに非常に近いのではないかと思うのですが、いいかがでしょう?」
*「関係論という点で言うと、インゴルドを始めとする最近の人類学が言っている「リレーショナル・シンキング」は、まさに仏教における「縁起」の考え方に他ならないと思います。つまり動きのなかで、あるものが別のものとの関係において生じていく。その関係的な流れを、ある思考として取り出すという点では、縁起のマルチスピーシーズ民族誌も、同じような世界の捉え方をしようとしていると思います。」
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