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國分功一郎『手段からの解放』/森有正『生きることと考えること』『思索と経験をめぐって』

☆mediopos3717(2025.1.22.)

mediopos3676(2024.12.12.)でとりあげた
若林正恭との対談(『文學界』)において
國分功一郎は
手段と目的と化した依存症的なありように抗い
「楽しむこと」の必要性を示唆していたが

『目的への抵抗』に続く
「シリーズ哲学講話」として刊行されたばかりの
『手段からの解放』では
そのテーマについて深掘りされ

カントの『実践理性批判』『判断力批判』をヒントに
「嗜好=享受」の概念が検証され
人間の行為から「嗜好=享受」を奪い
「目的と手段」に従属させる
現代社会の病理からの解放への道を開こうとしている

つまり
何らかの「ため」に駆り立てられてしまうことで
生を楽しむどころか
その「快」そのものが「ため」への依存となる
「病的」な状態となってしまうのである

その「病的」な状態においては
「快適なものを享受する術」をもてないため
「快を受け取らず、手段をただ目的達成のためだけに
求め続けることにな」り

「経験というものそれ自体が消滅した状態」において
「もはや主体が存在せず、
経験する能力そのものを奪われた生」と化してしまう

國分功一郎はその「経験」について
ヴァルター・ベンヤミンが
第一次世界大戦の帰還兵たちが戦争によって
経験する能力そのものを奪われ
主体が徹底的に破壊されたことについて
示唆しているように

現代社会は私たちの生を
「目的によって駆り立てられ、何もかもを手段と見なす」
そんな生と化してしまうというのである

そうした「経験」について
森有正は「体験」との関係においてこう示唆している

「経験が体験とちがうのは」
「前者が絶対的に人為的に、あるいは計画的に、
作り出すことができない、ということである」

「その経験ということにある時目ざめたときに、
その経験の全体が自分なのだ、
それが一人ひとりの人間というものの意味なのだ」

「経験ということは、根本的に、
未来へ向かって人間の存在は動いていく。
一方、体験ということは、経験が、
過去のある一つの特定の時点に
凝固したようになってしまうことです」

この意味における「経験」は
「目的と手段」に従属・依存し得ないような
「一人ひとりの人間というものの意味」としての
「私」の「経験」であるということもできるだろう

手段や目的から解放されたところではじめて
「生」は享受され得るとともに
カント的にいえば
高次の欲求(善きもの)や
高次の感情(美しいもの・崇高なもの)へと
みずからの「経験」を高めていくこともできる

■國分功一郎『手段からの解放:シリーズ哲学講話』 (新潮新書 2025/1)
■森有正『生きることと考えること』(講談社現代新書 1970/11)
■森有正『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫 1976.7)

■『森有正エッセー集成5』(ちくま学芸文庫 1999/10)

**(國分功一郎『手段からの解放』〜
   第一章 享受の快————カント、嗜好品、依存症)

*「カントは(・・・)快と不快の感情にも高次と低次があると思い至った(・・・)。

 高次の快および不快の感情の存在を示し、これを定義することこそが『判断力批判』の主要な課題の一つである。だからこそ、快と関係があることの明かな嗜好概念の位置づけは、同書に求められねばならないのである。」

*「『判断力批判』において、嗜好=享受は「快適なもの」をその対象とするものとして描かれている。そして「快適なもの das Angenehme」は、低次の「快 die Lust」に属している。」

「カントによれば、快の対象は四つしかない。

  快の感情に関連して対象は、快適なものか、美しいものか、崇高なものか、(端的に)善いものか、これらのいずれかに数え入れられなければならない。

 これは本稿にとって出発点となる極めて重要な一節である。

 世の中に快の対象は無限にあるだろう。しかし、概念として整理するならば、それらはすべてこれら四つ、「快適なもの das Angenehme」「美しいもの das Schöne」「崇高なもの dasErhabene」「(端的に)善いもの das Gute(schlechthin)」のいずれかに分類されるとカントは断言しているのである。」

*「以下で考察されるのは、『実践理性批判』および『判断力批判』における、能力の高次および低次の実現である。

 二つの部門において、二種類の能力の実現が論じられているのだから、問題となるのは四つのケースである。(・・・)これを数学の座標面に見立て、右上から反時計回りに番号を振ってある。たとえば右上を第一象限(①)と呼ぶことにする。

 すぐに気づくのは、快の対象は四つしかないけれども、それらは四つの象限に均等に配分されてはいないということである。快の対象という観点から見た時、第三象限(③)、つまり欲求能力の低次の実現は空欄である。

 本稿の論述対象である享受の快、すなわち快適なものはその右隣、第四象限(④)に位置づけられている。つまり、享受の快の左隣には、快がない。これらの事実は極めて重大な問題を提起する・」

*「先の引用で言われる善いもの(善)とは。高次の欲求能力の実現(②)である。」

「人間の与えられている目的は、人間に、嗜好=享受のためだけに生きることを許さない。どれほど熱心に嗜好=享受しているのであろうとも、嗜好=享受のためだけに生きることに人間の理性は納得しないだろう。当然である。それでは、事実として道徳的存在者である人間のうちに秘められている目的が達成できないからである。

 だが、カントは享受することそのものを否定しているのではない。ここで否定の対象は、たんに享受するためだけの生き方であることに注意しなければならない。嗜好=享受そのものをカントは排除していない。

 峻厳な認識と並んで示されるカントのこの思想こそ、本稿の道しるべである。」

*「カントはなにかを「美しい」と判断する働きを趣味判断と呼んでいる。」

「目的とは端的に、もののあるべき姿を意味している。或る対象がそのあるべき姿(目的)に一致する時、その対象は合目的的である。ところがカントは、「合目的性は、目的がなくても存在することができる」と言う。

 この驚くべき状態こそ、我々が何かを見て「美しい」と判断するたびに起こっていることなのである。美しい対象は、そのあるべき姿を示す概念、すなわち目的をもたないにもかかわらず合目的的である。」

*「三つ目に扱うのは崇高なものである。」

「崇高とは一言で言えば、我々を圧倒するような「物凄い」ものに対して我々が抱く感情のことである。」

「確かに我々は自然を前にすればちっぽけな存在だ。だがこのちっぽけな存在の内には、自然によっても決して傷つけられない「人間性 Menschenheit」、それどころか自然に勝る卓越性が存在しているのだ」

「崇高を通じて再確認される我々の内なる人間性は、先に見た道徳性を含んでいる。つまり、この一連の混乱に満ちた業務過程を通して、人間は自らのあるべき姿、人間の目的を再確認するのである。それ故、崇高もまた、結局は合目的的だと表象される。」

「崇高は(・・・)、快をもたらす不快。不快ではあるが快でもある感情という意味で————高次の快である美に対して————高次の不快と位置づけることもできるかもしれない。

 また、確かに人間のもつ力に気づかせ、そのあるべき姿を再確認させるという意味では合目的的ではあるが、そもそもは非合目的的な経験によってもたらされたのであるし、構想力と理性の「抗争」————不一致————も未解決なままなのだから、氏以降の感情の合目的性は、矛盾をはらんだ合目的性と呼ぶこともできるだろう。」

・第四象限と第三象限との関係

*「間接的に善いもの(③)もまた目的をもつけれども、その目的は、第一および第二象限(①②)のそれとは全く性質を異にする。なぜならば、端的に善いもの(②)も、美しいものおよび崇高なもの(①)も、手段とは無関係だからである。欲求能力の低次の実現(③)を特徴付けるのは、目的というよりも手段と言うべきである。あるいは、目的−手段連関と言ってもよい。

 これによって第三象限は他の象限から決定的な仕方で区別されている。端的に善いもの(②)、美しいものおよび崇高なもの(①)、そして快適なもの(④)が直接に満足を与えると言われるのは、そこに手段が介在しないからだった。それらはいずれも手段性から自由である。間接的に善いもの(③)だけが手段にとらわれている。

 第一、第二象限には、手段性にとらわれていないという共通性がある。低次に位置づけられている快適なもの(④)が、にもかかわらず、端的に善いものとか美や崇高(①②)といった高次に位置づけられるものを並べられていたことの根拠の一つはここにある。」

・目的に駆り立てられる生

*「なぜカントは欲求能力の低次の実現、あるいは我々の日常生活における通常の行為を病的と称しうるのであろうか。それは我々が何らかの感性的ないしは情動的な動因によって駆り立てられているからである。

 何らかの内容をもった目的のために、たとえば生存や安楽な暮らしのために何かをする時、我々は確かに多かれ少なかれ、それらの目的に駆り立てられ、目的にとって有用なものを手段と見なす。」

「それに対し、「受動的」と呼ばれた享受の快のうちにある時、我々は駆り立てられていない。(・・・)ただ享受の快のうちに留まっている。快適なものを楽しむとき、我々は目的−手段連関から自由になっている。だから病的ではない。」

・病的であることからの二つの脱出路

*「「俺はこれが好きなんだ」という食んだんには、全く普遍性はない。しかし、そのように断言できる人間は、自分に固有の趣味を持っている。その人は、享受の快の受け取り方を知っている人間である。自分に固有の趣味を持つ人間は、何もかもを目的のための手段と見なす病的な日常から抜け出して、快適なものを享受する術を知っている。また、享受の快を経験したからこそ。それを自らの楽しみだと知ることができるとすれば、享受の快は、その人間に固有の趣味をもたらすものであるとも言うことができる。

 それに対し、享受の快の受け取り方を知らない人間は、病的であり続ける。快を受け取らず、手段をただ目的達成のためだけに求め続けることになる。」

・目的への抵抗、手段からの解放

*「人間生がそのあらゆる地帯を目的−手段連関によって占領され、目的とは無関係である享受の快のための地帯が失われれば、そこに現れるのは、享受の快を剥奪された生にほかならない。あらゆるものが目的のための手段とされる生である。」

・生活の手段化

*「目的は持ち込まれた途端に存在することをやめてしまう享受の快を剥奪することは、人間に病としての依存症への道を開く。社会がこのまま進み、すべてを手段化した時、我々はおそらく、これまで見たこともないような依存症に出会うだろう。

 人間から享受の快を剥奪してはならない。それは人間の生すべてを目的−手段連関に従属させることだからである。」

**(國分功一郎『手段からの解放』
   〜第二章 手段化する現代社会)

*「第四象限が第三象限によって呑み込まれることによって何が起こるか。快適なものが手段化されると同時に、享受の快が消え去るのでした。アルコール依存症に陥った時、人はもはやアルコール飲料を楽しんでいない。」

**(國分功一郎『手段からの解放』
   〜おわりに————経験と習慣)

*「本書では、四つ目の快の対象、すなわち快適なもの、享受の快が、現代社会において危機に瀕していることを論じてきた。」

「それは第一、第二、第四象限の経験が無と化し、生が第三象限に還元されてしまうという危機に他ならない。快が消滅し、生が目的のための手段と完全に等しくなる状態である。

 これはいったいいかなり状態であろうか。おそらく、経験(experience)というものそれ自体が消滅した状態である。ここで「経験」の語は特に根拠なく狭い意味で用いているが、私の念頭にあるのは、ヴァルター・ベンヤミンが第一次世界大戦の帰還兵たちを思い起こしながら記した「経験の相場が下落してしまった」という一言である。帰還兵たちは伝達可能な経験が豊かになってではなく。それがいっそう乏しくなって帰ってきたとベンヤミンは言う(「物語作者」)。

 帰還兵たちはフロイトならば戦争神経症と呼び、現代であればPTSDと名指される症状に近い状態にあったと考えられる。戦争は彼らの主体を破壊した。主体に変更を加えたのではなくて、主体を破壊した。それによって彼らは経験する能力そのものを奪われた。戦争もまた目的−手段連関の権化である。それは主体を徹底的に破壊する・

 それに対し、現代社会は生を第三象限に還元し、これを目的のための手段と完全に等しくすることで、主体が形成される機会そのものを人びとから奪う。目的によって駆り立てられ、何もかもを手段と見なす生とは、もはや主体が存在せず、経験する能力そのものを奪われた生ではないだろうか。

 ならば主体が再来するための手がかりはどこにあるのか。ヒントの一つはおそらく習慣(habit)にある。我々はしばしば、まず主体があって、それが習慣を身につけると考える。しかし、そもそも主体とは、数えきれないほどの大小様々な習慣の集積ではないだろうか。何事かを反復していく中で身につけられた規則の総体こそが主体ではなかろうか。

 主体の形成には反復が関わっている。しかし、現代の経済体制において最も許されないのが反復である。我々は常に新しい需要、新しい目的、新しい夢を追いかけるよう駆り立てられている。我々は習慣を作る間もなく、次のミッションへと投げ込まれる。

 習慣なき生は主体なき生であり、主体なき生は経験の能力を失っている————そんな風に考えられないだろうか。」

**(森有正『生きることと考えること』
   〜「Ⅳ 経験と体験」より)

*「人間はだれも「経験」をはなれては存在しない。人間はすべて、「経験を持っている」わけですが、ある人にとって、その経験の中にある一部分が、特に貴重なものとして固定し、その後の、その人のすべての行動を支配するようになってくる。すなわち経験の中のあるものが過去的なものになったままで、現在に働きかけてくる。そのようなとき、私は体験というのです。
 それに対して経験の内容が、絶えず新しいものによってこわされて、新しいものとして成立し直していくのが経験です。経験ということは、根本的に、未来へ向かって人間の存在は動いていく。一方、体験ということは、経験が、過去のある一つの特定の時点に凝固したようになってしまうことです。
 だから、どんなに深い経験でも、そこに凝固しますと、これはもう体験になってしまうのです。これは一種の経験の過去化というふうに呼ぶことができましょう。過去化してしまっては、経験は、未来へ向かって開かれているという意味がなくなってしまうと思うのです。」

**(森有正『思索と経験をめぐって』)

「経験が体験とちがうのは、そしてそれについての一つのもっとも根本的な点は、前者が絶対的に人為的に、あるいは計画的に、作り出すことができない、ということである。体験を積み、さらにそれを豊かにしようとすることはできる。しかしそう思うことは、すでにその人の経験の上に立ってのことであり、その経験そのものは、断じてそういう予見的試行、ないしは計画的実現を許さないものである。体験は心がけによって豊かになるであろう。まちがいのない、的確な行動を可能にするように錬磨されるであろう。しかし経験は、・・・・・・ただ変貌を遂げるだけである。」

「その経験ということにある時目ざめたときに、その経験の全体が自分なのだ、それが一人ひとりの人間というものの意味なのだ、つまり、私が経験を持っていることを本当の意味で感じる、あるいは経験を持っていることを経験するというのはおかしいけれども、私どもの現実が実は私の経験そのものである。それが私自体である。
 私の言う現実は経験によってみられた事実で、主観的な現実では全然ありません。」

「他人ということは、第三者、他人ということは、純粋に「私」であるから「私」、どうしても「私」にとって「あなた」になってくれないから他人なのです。ですから、本当に一人一人の人が自分を自覚し、自分の生活というものをつかまえ、自分一個のために生きようとし始めたら、全部の人が全部の人にとって他人になってしまう。本当の意味で社会というのはそれなのだと思います。その中で、その他人である人が自分から自分としての自分をほかの人の前に示す時に初めて、その人はある人に対して、ある問題について本当の「あなた」になってくるわけです。それは「私」と「あなた」です。ところが日本では初めから、「あなた」と「あなた」だけの関係がすべてで、そこにすべてを集約して、そこに理想を置こうとするから、どんなになっても個人というものは独立しない。「私」というものが生まれてこない。「私」というものが生まれてきたら「私」というものは他人になってしまうから、「あなた」に腹を割って話なんかできなくなってしまう。」

□國分功一郎『手段からの解放』【目次より】

はじめに――楽しむことについての哲学的探究

第一章 享受の快─―カント、嗜好品、依存症
生存にとっての余白/楽しむとはどういうことか/嗜好品についての哲学的考察/カントのタバコ論/目的から自由である快適なもの/享受の快が手段にされる時/病的になること/目的に駆り立てられる生/依存症の問題/目的への抵抗、手段からの解放/生活の手段化 etc 

第二章 手段化する現代社会
初めてのカント論/『暇と退屈の倫理学』で書き残したこと/目的に対立する嗜好品――嗜好品とは何か/快適・美・崇高・善――四つの「快」/目的からの自由――快適なもの/享受の快の消滅/問題はむしろ手段/違法薬物の問題/依存症と自己治療仮説 etc

おわりに――経験と習慣

○國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年千葉県生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京大学大学院総合文化研究科修士課程に入学。博士(学術)。専攻は哲学。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。著書に『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界――意志と責任の考古学』『スピノザ――読む人の肖像』『目的への抵抗』など。

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