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「おとさん、おはよう」 「おはよう。ユウジ」 「おなかすいた」 「朝ごはんにしよう。納豆と味噌汁と梅干しだよ」 「いただきまーす。おとさん、お肉もほしいな」 「そっか。うん、用意するよ。はい、お肉だよ」 「もぐもぐ。おいしいよ。ごちそうさま」 「おいしかったね。ごちそうさまでした」 俺は東京都内に住居を持っている。 しかし、それは仮の住居で本来のものじゃない。この場合の〝仮〟というのは二つの意味がある。本当の住居が別にあるということと、それが仮想空間にあるということだ。
僕が入る墓(前編) 目の前に広がる田園風景を真っ二つに分けるように一本のアスファルトでできた道がどこまでも続いていた。僕は先を行く明美の黒くしなやかな後ろ髪から溢れた残り香をたどりながら、これ以上距離を離すまいと歩数を増やして後を追った。明美の腰のあたりにはまるで大気にひびが入ったかのように陽炎が揺らめき、明美の体にまとわりついていた。 「早くー」 「待ってくれよ」 「もうバテちゃったの?」 「いいや。まだまだいけるよ」 「早くしないと置いてっちゃうわよ」 明
その夏、僕らはメロンソーダの味を覚えた。思い出すのは、あの青空と君の微笑み。緑色の泡に、冷たい氷の感触。そんな些細なことが、僕らの心に深く刻まれている。 君と出会ったのは、昼下がりのラムネ売りの店。太陽は煌々と輝き、街はまばゆい光で溢れていた。店の棚に並んだ瓶詰めのラムネを見つめていた君の視線は、まるで小鳥が虹色の羽根を眺めるようだった。 そして、君はメロンソーダを選んだ。僕も同じものを選び、君と並んでベンチに座った。 初めて君がその瓶を開けた瞬間、ソーダが泡立つ音が静
授業が終わった後の学校は真っ暗闇だ。僕みたいな陰気な人間にとっては。 帰りの会が終わると同時に鞄の中に教科書をしまう。目立たないようにするのが肝心だ。教室には恐ろしい生き物がうじゃうじゃしている。 シアイニムケテレンシューシヨーゼ。汗臭い野獣ども。カラオケバイトゲームナニスル。ピイピイうるさい鳥たち。ナヤミガアッタラショクインシツニオイデーナ。担任。一番厄介な妖怪。 鞄を抱えて席を立った。机と机の間を身を細めて抜ける。授業が終わった教室は無法地帯だ。安全な場所など
春の訪れ 森の奥深くの洞穴に眠るヒグマはツバメの鳴き声を聴くなり寝返りを打つ。誰もいないはずの湖のほとりにつがいのシマリスが現れ、風で飛ばされた木の実を求めて草をかき分ける。それを遠くの水面からじっと見つめるカバは水中へと潜って再び水面に顔を出すと、鼻から水を勢いよく吹き出す。シマリスは突然のことに身を震わせて森の方へと去っていく。再びツバメが鳴くとヒグマが寝返りを打つ。どこからか怪物が唸り声をあげながら近づいてくる音がする。白いボートだ。船上には二人の人間が立っている。
前任者から急遽引き継ぐことになった囚人の監視に、瀬戸は右往左往していた。 「珍しいですね、ここで独房だなんて。しかも監視は僕一人だけですか?」 「これは極秘事項でな、一人で監視した方が都合がいいんだ。彼が、ここから逃げ出す心配はない。しかし、このことが外に漏れたら、まず、お前が疑われるぞ」 「彼は誰なんですか?」 「こいつに名前は、もうない。必要があれば、紙魚と呼べ」 「罪名はなんですか?」 「前例のないものだ。歴史上で、人間が犯した罪の中で最も重いとされている」 「最も重
「マジで嫌なんだよなー」 隣にいる友達が眠そうに目をこすりながら、ため息交じりに言った。周りにいる皆もそれに同調して「なんで母親なんだよ」「見られたくないんだけどな」と口々に愚痴を垂れている。 今日は三者面談だ。この学校は新年度になった春と、進路を決める冬に二回ほど三者面談を行う。三者面談では自分の成績や内申点、志望校に合格する見込みがあるのかなどの情報を教師から聞ける貴重な機会だ。しかし、男子生徒たちにとっては親と一緒に先生と話すという恥ずかしい日でもある。特に三者面
私のキーホルダーにはもう三十年ほど使用していない鍵があります。 なぜ使わないのに大切に持っているかというと、私にとって一生忘れられない鍵だからです。 それは私の生涯で、最初で最後のマイホームの鍵なのです。 私は29の時、中学の同級生と結婚しました。翌年に長男が生まれ、その2年後には長女を授かりました。決して裕福ではありませんでしたが、子供にも恵まれ、順風満帆の家族生活だったと思います。 長男が小学校にあがる歳になり、さすがに新婚当初から暮らしていた1DKのアパートで
夢を見ていた。見知らぬ場所で長く付き合っている彼女と手を繋いで歩いている。空を見れば、澄んだ青空に形の良い雲が流れていた。風は暖かく近くの飲食店の良い匂いを運んでくれる。すれ違う人達は笑顔で、それを見ていると胸が温かくなり、二人は自然と笑顔になってしまいそうだった。 しばらく歩いていると、見覚えのある顔があった。彼は確か、高校の同級生だ。穏やかで物静かな彼は唯一の友達と言える存在だった。そんな彼がこっちを向いて手を振っている。思わず彼に近寄り、話しかけようとした。しかし、
私の頭に、変なものが生えてきた。 にょきにょきにょきにょき、生えてきた。 あなたの頭にも、あるかもよ。 「ん? なに?」 それに気づいたのは、本日は晴天なりって繰り返し言いたくなるような、カーテンから元気いっぱいの太陽光が入ってくる朝だった。 鎖骨あたりまで伸びた私の髪は、朝起きるとぐちゃぐちゃに絡まっているから、毎朝、洗面所を占領して髪を丁寧にとかす。その朝も、女子高生の命である髪を整えていた。 そのときだった。頭頂部で、ブラシが何かに当たった。 「ん?」
山の麓の小さなお店。 レモンケーキしかないお店。 だけどここには、いろいろなところから 多くの人がやって来る。 レモンケーキに使うたまごは ご近所にある養鶏場のあかりさんが 毎朝、採れたてのたまごを持ってきてくれる。 今日も両手いっぱいのたまごを抱え あかりさんがやって来た。 「つぐみちゃーん、卵持ってきたよ」 「あかりさん、いつもありがとうございます!」 「こちらこそ。そういえばつぐみちゃん、 市内にお店を出店する話、断ったんだって?」 「はい…声をかけて頂
日本には実に様々な怪談話が存在している。代表的なのがトイレの花子さんや動く人体模型、夜になると鳴るピアノなどだろうか。そのような怪談話は今では都市伝説という名前を変え、ネットを通して子供から大人まで幅広い層を楽しませている。 誰がいつ作り、どうやって広めたのかは一切分からない。ほとんどの話しがいつの間にか広まっていて、出所を探そうにも広大な情報の海と化したネットには真偽のわからない噂が多数存在している。これは完全な作り話だ書いてあるものもあれば、この場所のこの時間に死んだ
読書するぼく 美容院で髪を切り終わった後、たまたま次の予定まで微妙な時間が空いてしまったため、僕は喫茶店で本を読みながら時間を潰そうと思った。お店に入ると、そこら中に人がごった返しており、席が空くまで待機する必要があった。いくら待っても皆席を離れようとはせず、まるでここが喫茶店ではなく、会社のオフィスにいるかのようにそれぞれが自分の決まった席を持っているようだった。僕はなぜここまで長時間席を独り占めしては新たに注文をするわけでもなく、ただ自分の時間に没頭している者たちを店
大事なことは、いつだって小声で囁かれる。 「俺たち、もう終わりにしないか」 青井くんは、何食わぬ顔でポツリと言った。 ようやく人だかりがはけた学生食堂。 そのテーブルのひと隅に、彼と私は居た。 空になった皿を載せたトレーが、カランと音を立てる。 トレーと共に立ち上がった青井くんが告げた「もう終わりにしないか」という言葉は、 提案、というよりはすでに採択された決議のように、とても静かに私の頭上から降ってきた。 「……終わり?」 「うん、別れよう。そろそろ」 中庭に