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【短編小説】幸せな夢


 夢を見ていた。見知らぬ場所で長く付き合っている彼女と手を繋いで歩いている。空を見れば、澄んだ青空に形の良い雲が流れていた。風は暖かく近くの飲食店の良い匂いを運んでくれる。すれ違う人達は笑顔で、それを見ていると胸が温かくなり、二人は自然と笑顔になってしまいそうだった。
 しばらく歩いていると、見覚えのある顔があった。彼は確か、高校の同級生だ。穏やかで物静かな彼は唯一の友達と言える存在だった。そんな彼がこっちを向いて手を振っている。思わず彼に近寄り、話しかけようとした。しかし、いくら歩いても一向に距離は縮まらない。歩いても歩いても疲れるばかりで、ついには立ち止まり、息を整えた。彼はその間もずっと笑顔で手を振り続けていた。


 目が覚めると、既に暖かい陽射しがカーテンの隙間から漏れていた。時刻は正午前。こんなに遅くまで寝ることが滅多にないため、澤田陽太は携帯を確認してメールや時事ニュースをくまなくチェックした。芸能人の不祥事や結婚報道、春になると呆れるほどに報道される桜前線や花粉の情報など、興味を惹くようなニュースはない。澤田は携帯から目を離して、冷蔵庫から水を取り出してコップに注いだ。
 頭が痛い。長く寝たらスッキリと起きられるものだと思っていたけれど、さすがにそんな事はなかったようだ。なんとなく体も怠いし、前日にラーメンを食べたからか、息は酷い臭いだ。顔も寝汗でべとべとしている。水を飲んでも、臭いが混じって嫌な気分になってしまいそうだった。
 歯を入念に磨き、顔を洗って、面白くもないテレビを見ていると、携帯が震えているのがわかった。画面を見ると、土肥さんからだった。携帯を手に取り、着信拒否をする。普段ならまだしも、今は彼女の声を聞く気にはなれなかった。
 土肥さんは三年前に付き合い始めた澤田の初めての交際相手だ。中学の同級生で、明るくからからと笑う彼女を澤田はずっと気になっていた。社会人になってから地元に帰省した際、偶然出会い、連絡先を交換して交際を始めた。
 最初は楽しかった。土肥さんは中学と同じく明るくてよく笑い、澤田の事を何かと気にかけ、支えてくれたりもした。しかし、交際していくうちに、彼女のずぼらな性格や、場の雰囲気を察して話せない所が見えてきた。交際相手であって、結婚を考えていないからこそ、我慢はできるものの、以前のような熱い恋愛感情は冷めている。彼女もそれを感じ取っているからなのか、今では別の男と頻繁に出かけるようになっているほどだ。
 別れてしまえばいいのに、別れを切り出す勇気はない。音信不通にして逃げる勇気もない。澤田はただただ、あちらから別れ話を切り出すことを願っていた。

「あんたいつまで寝っ転がってんの。早く起きなさい。子供じゃないんだから」

 白髪と皺の増えた母が当然のようにノックなどせずにドアを開け、呆れたように言った。澤田はそれに返事をせず、のろのろと起き上がった。
 父の訃報を聞いたのは四日前だ。死因はわからないけれど、お風呂の中で溺れているのを母が見つけたらしい。そんなショッキングなことがあったにも関わらず、母は平静を装い、病院に連絡をして死亡確認が取れると、すぐに葬式の準備を始めたようだった。
 父はあまり好きではなかった。幼少期にはよく殴られ叱られた。理由を聞いたり、反論しても「言い訳をするな」の一点張りで、当時は子供ながらに会話ができないのだろうかと不思議に思ったくらいだ。今思えば、子供を叱ることでストレス発散でもしていたのだと思う。父は家族を養うために朝早くから夜遅くまで働いていた。その上に、少年の澤田が疲れている父に向ってどこかで見た戦隊アニメの真似をして殴ろうとしたり、うるさく話しかけるのだから、怒るのは当然と言えば当然だ。ただ、幼少期の澤田にはよく怒りよく殴る嫌な父親でしかなかったわけだが。
 お通夜には近所のおばさんおじさん、仕事での関係の方々が来てくれた。彼らは口々に「お父さんはとても真面目で頭の良い人だった」「面倒見のいい慕われた人だった」と口にした。寡黙な父の姿しか見てこなかった澤田にはそれが全く理解できず、母がそれを聞いて泣いているのも全く理解ができなかった。
 お通夜や告別式が終わり、やっと落ち着いたのが今日だ。だからお昼まで寝てしまったわけだが、不思議としっかりしている母は自分だけ早起きをしていつも通り生活している。リビングに降りてきた澤田は冷めた朝食を雑に口に放り込んで、面白くもないテレビをなんとなく見ていると、母は何やら雑誌を見ながら「あんた、外にでも出てきなさいよ。陽の光を浴びてきなさい」と言った。

「お母さんは少しくらいゆっくりしなよ。色々あったんだしさ」
「あら、心配してるの?私はそんなに弱くないのよ。お母さんだからね」

 その白髪はストレスがあるからじゃないのか。頬がこけているのも心身が疲れているからじゃないのか。そう言いたかったが、母は変な所で頑固だ。澤田は「そうですか」と返事をしてご飯を食べ、歯磨きを済ませると、家を出た。
 実家のあるこの村は歩いていても、家と道路しかない。近辺に飲食店やコンビニ、書店といったものは何もなく、通っていた中学校ですら、三十分以上あるかなければならない。だから、外に出ても、ただ、ひたすら歩くだけだ。

「よぉ。久しぶり。携帯見ながら歩くなよ。危ないだろ」

 あまりにもつまらないので、携帯を見ながら歩いていると、前方から低く、落ち着く静かな声がした。慌てて顔を上げると、そこには高校生の頃に仲良く話していた鶴渕がいた。少し、ふっくらとした体型で、顔も髪型も変わっているが、おそらく間違いないだろう。

「おぉ。成人式ぶり。どうした。確か神奈川の大学に進学したんじゃなかったっけ」
「うん。神奈川で生活してる。今日は用があって家族に会いに来た。そっちは葬式だったんだっけ。お悔やみを申し上げます」
「いいよそんなの。鶴渕は関係ないだろ。あんまり家族同士は接点なかったんだし。普通でいいよ。普通で。用事ってなんなの?」
「いや、別に言うほどでもないよ。ちょっと顔見ようかなって思っただけ」
「何それ。もう俺たちアラサーだぞ。今更ホームシックとかになってんのかよ。彼女でも作れよ。そうすれば寂しくないぞ」

 鶴渕は顔は悪くない。性格も優しいから友達だって多かった。澤田と違って、女の子たちからも話しかけられていた。でも、自分の意見や本心を絶対に話すことはない。それは皆が気付いている。だから、彼女はいない。それどころか、いつも一緒にいるような、いわゆる親友と呼べる同級生も彼の中にはいないようだった。おそらく澤田がどんなに話しかけても、彼の中ではその他大勢の一部でしかないのだろう。

「彼女は特に興味ないかな。いたらいいんだけどね。じゃあね。俺はそろそろ神奈川に帰らないといけないから。明日も仕事だし」
「仕事って何やってんの?」
「ライブハウスの店員。たまに演奏とかもしてる」
「かっこいいじゃん。今度行こうかな」
「どうせ来ないだろ」

 鶴渕は少し笑って、ライブハウスの名前を一度だけ呟いて歩いていってしまった。澤田はそのライブハウスを忘れないように携帯にメモをして、また、しばらく歩いた。
 鶴渕が自殺をしたらしいと連絡が来たのはそれから数日後の事だった。

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 電話をかけてきたのは母だった。澤田が仕事終わりで自宅に帰ると、見計らったかのように、電話が鳴った。平静を装うようにして「仕事終わったの?」と前置きをしてから、急に真面目な声で「鶴渕君とこの前会った?」と早口に言った。母の話しは要領を得なかったが、どうやら鶴渕が遺書のような物を残して、音信不通になったと鶴渕の母親から知らされたらしい。鶴渕は実家を出る前、澤田と会ったことを話していたらしい。だから、電話をしてきたのだろう。
 しかし、残念なことに、鶴渕と会ったものの大した話はしていない。そう伝えると、母は「陽太宛てに手紙があるらしい」と電話越しに言った。
 今日、それが届いた。鶴渕が慌てて書いたのか「澤田へ」と書かれた文字は酷く雑で、本文も思った以上に字が読みにくい。相当、精神的に辛かったのか、前半は自身がミュージシャンを志していたこと。才能が無く、芽が出そうにないこと。容姿に関して言われることが多く、歌を聴いてもらえなかったこと。誰にも相談できなかったことなど。そんな事が長く書かれていた。

 昨日、夢を見たんだ。ミュージシャンとして成功して聞いた人を笑顔にする夢。本当に幸せだった。でも、起きてからの絶望の方が大きかったな。俺は一生、あんな経験ができないんだと打ちひしがれたよ。でも、そんな夢みたいなことを体験させてくれる人を見つけたんだ。話しによると、幸せな夢を見られる代わりに、肉体は死ぬらしいんだけど、まあ、それでもいいかなって思ってる。お前もたぶん、悩んでることあるだろ。話せばわかるからな。一緒に行こうと思ったんだけど、その人に止められたから、俺だけで行ってくる。一応、その人の連絡先教えておくから、気が向いたら来いよ。じゃあな。

 手紙の後半にはそんな文章と、見慣れないメールのアドレスが書いてあった。そこには「夢研究所」と書かれている。どうやら鶴渕はそこに向かったらしい。
 これは警察に知らせた方がいいのだろうか。しかし、自殺をほのめかしているようには見えない。鶴渕の母も、自殺の遺書なのか、どうなのか決めかねているから警察に連絡していないのだろう。澤田に警察から連絡が来ないということはそういう事だ。
 澤田はとりあえず、「夢研究所」について調べてみた。しかし、情報は何もない。検索して出てくるのは寝具関係の業者だけだ。

 何かの間違いじゃないのか…

 鶴渕が何かに騙されているのではないかと思い始めていた。考えてみれば、幸せな夢を見せるなんてことができるわけがない。夢はいつだってランダムでどうこうできるものではないのだ。
 澤田が手紙の前で首を捻っていると、携帯が鳴った。土肥さんからだった。

「久しぶり。最近どう?仕事頑張ってる?」
「うん。いつも通り」
「最近、電話しても出てくれなかったのなんで?」
「ちょっと色々あってさ。ごめんね」
「ふーん。色々って?」
「まあ、色々だよ。話すことじゃないかな」
「そうなんだ。私の他に会ってる女の子とかいるんじゃないの?」

 電話の向こうで「ふふふ」と男の声がした。どうやら向こうは男と一緒にいるらしい。

「いないよ。申し訳ないけど、君とは違うんだ。そっちは近くにいる男と仲良くしたらいいよ。じゃあね」

 電話を切り、少しだけ画面を見つめた。しかし、土肥さんからの着信はそれ以降、一切なかった。

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 鶴渕からの手紙に書いてあったメールアドレスに連絡すると、すぐに返事が返ってきた。あくまで普通の企業のように要件と来訪日時を聞かれ、澤田は今日の午後三時に予約すると、所定の場所に三時に来るようにと連絡が来た。
 普通の病院やクリニックならこんなに急に連絡して対応してもらえることなんてありえない。しかし、この「夢研究所」はこんなに急な時間でも対応してくれるらしい。
 それが澤田をさらに不安にさせた。所定の場所には一体何があるというのだろう。もしかしたら、着いた途端、毒か何かで殺されてしまうのだろうか。それとも、椅子に縛り付けられ、強制的に研究の実験台にされたりするのだろうか。
 そんなことを考えながら、身支度をしていると、職場から連絡が来ていることに気が付いた。そういえば、一週間近く体調不良という理由で休んでいる。上司は最初は「ゆっくり休んでね」と言っていたが、もう、我慢の限界なのだろう。この電話は「いつまで休んでいるんだ」という苦言の電話に違いなかった。しかし、澤田は仕事よりも鶴渕の安否の方が遥かに優先事項だった。

「もしもし、澤田です」
「あ、もしもし、澤田君?体調はどう?長く休んでるけど」
「すみません。全く良くならなくて」
「病院行った?そんなに良くないなら行かないと駄目だよ」
「はい。今度行きます」
「それと、澤田君ね、電話で言うのもなんだけど、休職か退職してほしいんだよね。こっちも休んでばかりの人に頼りたくないからさ。ほら、二カ月前くらいも一週間近く休んだよね。こういう事ばかりされると困るんだよね。今度出勤するときにどうするのか聞くから考えておいてね」

 上司は乱暴に電話を切った。実質、解雇宣告だろう。しょうがない。あんな職場で働ける方がどうかしている。人の悪口や陰口など当たり前で、上司に逆らおうとするものならすぐに部署移動。だから、新人はすぐに辞めて行く。若手が育たないから凝り固まった考えの中年おじさんや人の不幸が大好きなおばさんたちの巣窟となっているのだ。
 澤田は携帯に向かって舌打ちをして、家を出た。空は快晴。風は暖かく、どこかの家のおやつの香ばしいクッキーの匂いが漂っていた。

 鶴渕の気持ちがわかる気がするな。

 おそらく、今、クッキーを焼いてもらっている子供たちは幸せなのだと思う。澤田にもそんな時代はあった。しかし、今はどうだ。彼女には浮気をされ、仕事では解雇通知に近い発言をされた。友達もおらず、唯一、仲の良かった鶴渕は行方不明だ。
 人の幸せが羨ましい。屈託なく笑って生きている子供が羨ましい。家族で幸せに生きている夫婦が羨ましい。
 駅に着き、周りを見ると、全員が幸せそうに見える。虐めやパワハラで自殺をする人がいるというニュースをたびたび見かけるが、そんな人は本当にいるのかと疑いたくなるほど、全員が幸せそうだった。澤田はそれをあまり見ないようにしてホームで電車を待った。

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 指定された場所は普通のビルの三階だった。澤田は緊張した足取りでエレベーターのボタンを押し、三階に着くと、目の前に「夢研究所」という胡散臭い名前のドアが見えた。数秒、ドアの前に立って中の音を聞こうとしたが、ドアの向こうで誰かが動く音も話し声も一切しない。本当にこの中に人はいるのだろうか。もしかしたら、騙されているのではないか。そんな事を考えていると、後ろのエレベーターが開く音がした。そこには白衣を着た澤田と同じくらいの年齢の若い女が立っていた。

「あ、予定されていた方ですね。さ、どうぞどうぞ。中に入ってください」

 明るい綺麗な声で女は澤田を促すと、ドアを開けた。そこには酸素カプセルのような人が一人入れるほどの大きさの機械が数台だけ置かれていた。

「すみませんね。ちょっとお腹が空いたもので。近くのコンビニに行ってました。確か、名前は澤田さんでしたよね。今日はどのようなご用件で?といっても、大体わかってますが。あなたも幸せな夢を見たいんですよね」

 コンビニ袋を雑にデスクの上に置くと、女はそう言った。どうやら、ここが「夢研究所」で鶴渕が向かった場所に間違いないようだ。

「違います。僕は友達を探しに来ました。鶴渕って名前の男なんですけど、知りませんか?確か、ここに行くって手紙に書いてあったのですが」
「あぁ、鶴渕さん。確か、左から二番目の機械に入ってますよ。その方がどうしました?」
「連れ戻しに来ました」

 そう言うと、女は「へぇ。すごいですね」と笑った。澤田は女の表情や言葉に違和感を覚えていた。何かわからないけれど、普通の人とは何か違うオーラのようなものをこの女は最初からずっと発している。

「お好きにどうぞ。と言いたい所ですが、一度でも、機械を取り付けたら戻ってくるのは本人の意志でなければ難しいんですよね。無理に機械を外しちゃうと精神状態が不安定になってしまいますので。まあ、でも、やってみたらいいですよ。どうぞ」

 澤田は左から二番目の機械の前に立った。その時、初めてわかったが、異様に臭う。嗅いだことのない臭いだ。
 思わず顔を顰めていると、女が面白そうに「便だったり尿だったりは基本的に垂れ流しですからね。それに、お風呂にも入りませんので、体臭はすごいんですよ。それでも、機械の中にいれば消臭されるんで問題ありませんが」

 そんな女の発言を無視して、澤田は頭に付いている機械を強引に外した。すると、鶴渕は何度か唸ると、目を覚ました。寝起きのような状態だ。

「よお、鶴渕。来たぞ。お前何やってんだよ。帰るぞ。立てよ」

 しかし、鶴渕はこちらを見るばかりで何も答えない。状況が理解できていないのかもしれない。慌てて、澤田は手紙を見せた。

「これ、読んだよ。お母さんとかも心配してるから帰るぞ」
「何してんだよお前。これ取ったのお前か」
「うん。もちろん」

 鶴渕の目にはっきりと怒気が滲んでいた。口は臭く、何日も歯を磨いていからか、うっすらと黄ばんでいる。髪も皮脂でべたべただ。

「ほら、立てよ。帰るぞ」
「うるせえな。俺は今、ミュージシャンだったんだよ。皆を笑顔にしてたんだよ。その途中で何してくれてんだよ。馬鹿かお前」
「いや、夢だろそれ。現実でやれよ」
「この顔で?この才能で?できるわけないだろ。俺が今までどれだけ言われてきたと思ってんだよ。もうこんな世界はこりごりだ。早く続きを見させてくれ。小島さん。お願いします。高い金払ってるんですから、勝手なことさせないで下さいよ。今度は止めてくださいね」
「はいはい。わかりましたよ」

 小島は澤田に対して「ちょっとどいてもらえます?」と言うと、当たり前のように機械をつけ始めた。

「死ぬんだぞ。わかってんのかよ」
「わかってるよ。こんなくだらない世の中で生きていくくらいなら死んだ方がマシだ。幸せな夢を見て死ねるなんて最高だろ。お前もやってみろよ。最高だぞ」
「よし。これで完了。鶴渕さん。いい夢を」

 小島は笑顔でカプセルを閉めると、一つ隣のカプセルを伺った。隙間から見えたのはおそらく女の子だ。酷く痩せている。

「この子はあと二日って所ですね」
「二日っていうのはどういうことですか?」
「二日で肉体的な死を迎えるので、遺棄をするということです。大丈夫ですよ。ちゃんと親元に返します。さりげなくね」

 この小島という女の違和感がわかった気がした。言葉や表情に罪悪感というものが一切見られないのだ。植物が枯れて捨てるような感覚で人と接している。こんな人間がいるのかと目を疑いたくなってしまう。

「よかったら澤田さんも試してみます?今日は一台空いてますし。普段なら五十万円払ってもらいますけど、今回はサービスしますよ」
「鶴渕を助けに来ただけだ。わざわざ自殺のようなことをするために来ていない」
「えー。鶴渕さんはもう帰ってきませんよ。さっきの見たでしょう。彼は夢の中でミュージシャンになりたくてたまらないんですから。また無理やり機械外したら、私が怒られてしまいます」

 小島はコンビニで買ってきたサラダを食べ始めた。どこまでも緊張感のない女だ。

「澤田さんにもそういった願望あるんじゃないんですか?ミュージシャンになりたいけどなれないとか。あ、ちなみに、左端にいる女の子は確か16歳ですよ。学校で虐められていたらしくて、でも、彼女はクラスの子たちと仲良くしたかったみたいなんですよねぇ。健気ですよね。だから夢の中で仲良くすることにしたみたいです。右端にいるのはなんと警察官ですよ。ここの噂を聞きつけてやってきたんでしょうね。何をしたいのかわかりませんでしたが、試しに夢を見てもらったら帰ってこなくなりました」
「何もやりたい事はない。死んだら親が困るだろ」
「親ねぇ」
 
 小島は興味なさそうにサラダを食べ、野菜ジュースを飲んでいた。やけに肌艶が良いのはこの偏った食生活のせいなのか、わからない。でも、彼女のこの容姿とフランクな話し方に騙される人間は多いのだろう。

「別に、必ず死ぬわけじゃないんですよ。夢の中にいても戻ってこれます。自殺すればいいんですよ。そうすれば、こっちの世界に戻れるんです。だから、お試しにどうですか。何か嫌な事とかあったんじゃないんですか?さっき、話してたら顔がぴくぴくしてましたよ。図星でしょう。彼女と別れたとかですか?それとも仕事がうまくいかないとかですか?」
「両方だよ」
「それならやってみましょう。大丈夫ですよ。帰ってきたいなら自殺すればいいんですから。さあさあ、機械に入って」

 小島が澤田の手を取る。土肥さんとは違った柔らかくて綺麗な手だ。近寄ると柔軟剤の香りがふんわりと香った。

「じゃあ、ここに寝てもらっていいですか。じゃ、機械を取り付けますね。大丈夫ですよ。痛くもないですし、何も感じないです。それではよい夢を」

 小島の柔らかい笑顔を最後に、澤田の意識は途切れた。


 夢を見ていた。見知らぬ場所で長く付き合っている彼女と手を繋いで歩いている。空を見れば、澄んだ青色に形の良い雲が流れていた。風は暖かく近くの飲食店の良い匂いを運んでくれる。すれ違う人達は笑顔で、それを見ていると胸が温かくなり、二人は自然と笑顔になってしまいそうだった。
 しばらく歩いていると、見覚えのある顔があった。彼は確か、高校の同級生だ。穏やかで物静かな彼は唯一の友達と言える存在だった。そんな彼がこっちを向いて手を振っている。思わず彼に近寄り、話しかけた。すると、彼は笑顔で「俺の歌でも聞いていけよ」と笑った。その顔は今まで一度も見たことのない幸せに満ちた笑顔だった。


 

 

 



 

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