月を食べた男
前任者から急遽引き継ぐことになった囚人の監視に、瀬戸は右往左往していた。
「珍しいですね、ここで独房だなんて。しかも監視は僕一人だけですか?」
「これは極秘事項でな、一人で監視した方が都合がいいんだ。彼が、ここから逃げ出す心配はない。しかし、このことが外に漏れたら、まず、お前が疑われるぞ」
「彼は誰なんですか?」
「こいつに名前は、もうない。必要があれば、紙魚と呼べ」
「罪名はなんですか?」
「前例のないものだ。歴史上で、人間が犯した罪の中で最も重いとされている」
「最も重い罪……。なにをしたっていうんです」
「月を食ったんだよ」
「まさか、あの教科書にも載っている……、生きていたなんて」
「はたして、生きていると言っていいのか」
「どんな罰を受けているんですか?」
「毎日少しずつ、記憶が消されていく。それだけだよ。自分が犯した罪の記憶だけが残り、それをやった理由や目的すら忘れ、自責の念に駆られ、生きることを恥じ、自ら呼吸を止めるまでな」
瀬戸たちのいる監視部屋と、男のいる独房は、分厚いガラス壁で隔たれている。
独房の中央に置かれたベッドに横たわる男は、身動ぎせず、じっと一点を見つめていた。彼はなにをおもうのか。
男の一人娘のミツキは、震える声で言った。
「父さん、私は幸せだったわ」
ミツキは、病気だった。もう長くはない。
「なにか、ほしいものはないかい」
「ほしいもの……。一つだけ心のこりがあるとすれば、皆既月食を見ることができなかったことかな」
彼女が生まれた夜、世間は天体ショーの話題で沸いていた。男は、そんなことはつゆ知らず、娘の名前決めに思案して空を見た。はて、月がない。今宵は満月ではなかったか。
ちょうど皆既月食のタイミングだった。
徐々に月が地球の影から出てくると、男はやっと、その意味を理解した。
まるで、月が生まれる瞬間を見たようだった。
そして、それは満月の夜に一瞬だけ訪れた新月の瞬間のようにも感じた。
新月は、自分の名前の由来になった出来事を、その目で見たかった。天候に恵まれず、数年に一度のチャンスをことごとく逃していた。次の皆既月食まで、ミツキは……。
男は、あるときミツキに言った。
「やっと準備ができた。今夜は皆既月食が見られるよ」
ミツキは笑った。もう話すことはできないが、その意味を理解することはできる。
男は、ミツキと一緒に空を見上げた。満月の夜。二人で見る最後の月だった。それは、二人以外の全てにもいえることだった。
腕時計を確認しながら、秒読みを始める。
十、九、八、七、六、五、四、三、二、一。
満月が、その形を変えていく。まるで、紙魚が本を食むように、あっちを食らい、こっちを食らい。やがて、月は完全に蝕まれた。
最後の皆既月食は、こうして終わった。
無月。
それ以降、月のない空を指して、そう呼ぶようになった。
男は俯瞰して、その記憶の情景を見ていた。これは、誰の記憶? 自分の記憶? 分からない。もう、自分の名前さえ思い出せない。ただ、その不純物が取り除かれた記憶の結晶を、そっと、壊れないように抱きしめた。
瀬戸は信じられなかった。
人類やその他生物、また地球にとっての大罪、無月を引き起こした張本人が目の前にいるなんて。
彼は、ICBMを大量に盗み、月に撃ち込んだ。ロケットに要する技術は弾道ミサイルと共通しているらしい。表面に着地した反物質弾頭が活性化し、対消滅のプロセスが始まると、まるで団子に齧り付いたかのような歯形が月についた。そして、何度も何度も月は削り取られ、やがて、完全に消滅した。
「お前は知らないだろうが、月があったころは、地球は今よりだいぶ安定していた。こいつはな、絶妙なバランスで保たれていた、それを壊したんだ。どれだけの犠牲があったか」
瀬戸は、紙魚と呼ばれる、その男の顔を見た。
相変わらず身動ぎ一つしない。
しかし、その表情は、思い出に浸り、優しく微笑んでいるように見えなくもなかった。
了
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