私は私の人生が嫌いだ
生きのびるために食べ、眠るために薬を飲む。 この状態は生きているといえるのだろうか。 「ひとりになりたくない」 「またすてられたくない」 「さみしい」 「自分の中の世界と外の世界のギャップが激しい」 私の中の大きな空洞を作っている孤独感はとんでもないことをしでかす怪物である。 うまくなだめて飼い慣らさないといけない。 私のためにも怪物のためにも、欲しいものをもういい加減に諦めなければならない。 どうしたって手に入らないのだから。 母親が死ねば楽になるのだろうか。 私は自
私にとって子育てとは、過去の自分に再会し、過去の親の行動と視点に対峙し分析する作業である。 トラウマに対面し自分が抱える問題を紐解き、自分の血・遺伝子・運命と呼ばれるものに全身全霊で抗おうという自分の人生の再理解であり再構築の作業である。 そしてその私とは全く違うものを持った娘という個体に自分が最も欲しかった自由を与え、彼女と共に、自分の苦しみを抑えてただ、日々を生きていくということである。彼女と遊び、話し、ケンカをして、仲直りをして、対等な個人として尊重しながら彼女との関係
「永遠なものなんてないんだと嘆いていても仕方ない」的なことを言った人が昔いた。 永遠なものが存在しないのは普遍的なことだ。 だからこそ大切なものが見えてくるし、私はそれを出来る限り守ろうという姿勢で生きている。 重要なのは大切に思うだけでははなく、大切に思っていることを行動で示すことだ。思うだけではただの自己満足であり、他者には伝わらない。目の前で他者にひどい言葉で傷つけられている大切な人をその場では見て見ぬふりをし、後からよしよし、とするのは大切にしている行動ではない。
「子育てが終わって何もない自分にならないように」「子育てが終わっても人生は続くから」よく聞くこういう話に、私は苦しめられていたと思う。 母親じゃない自分も社会のなかで構築しないといけないのか、と。そして、私は一人の人間なのに「母親」や「奥さん」という誰かの添え物ラベルでしか見ない人が苦手でもあった。 私は虐待家庭あがりなので全身全霊をかけて繰り返さない覚悟をもち、正解を知らないから知っている不正解から正解を逆算して子育てをしている。 基本的に孤独であり、娘が羨ましく感じる時
よく「生きやすい世の中に」なんていうけど、それは綺麗事。そしてとくに無意識のうちに生きづらい状況を作りだす人がこれを言う。良いこと言いたい、その人の自分のための言葉。 当事者に言わせれば生きやすい社会なんてないんだということ。生きるということは、この終わりのない不安と絶え間のないノイズのなかで諦めを携えていくということ。 私は個体としての不具合と生家の環境があまりに良くなかった。そのなかで、よく今まで生きてきたと思う。 疲れていても寝ようとしても何か自分のなかで押さえつけら
・主体性の無さ ・行動力のなさ ・思考の浅さ ・言語化能力の低さ ・それらに取り組もうとする誠実さの欠如 ・自己肯定感にみせかけた事実の歪んだ認知 ・困難なもの、大変なものよりも居心地がよいものに 流されている ・謝ることしかできないはずなのに言い訳、自己弁護 をする ・自分をちゃんとしようという自分がいない ・自分への甘さ ・大いなる愚かさ
私にとって子育てとは、過去の自分に再会し、過去の親の行動と視点に対峙し分析する作業である。 トラウマに対面し自身の問題の発端を紐解き、自分の血・遺伝子・運命に全身全霊で抗おうという私の人生の再理解であり再構築である。 そしてその私とは全く違うものを持った彼女という個体と共に、ただ日々を生きていくということである。 彼女と遊び話しケンカをして仲直りをして、彼女との関係をつくっていくことである。 彼女への愛、彼女からもらう愛によって人生の全ての痛みを覚悟を持って受けとめただ生きて
来世があるなら違う人生がいい 今生は自分がどうしたいとかこれはいやだとかはおいておいて 母親ののぞむように生きればよかったのだろうか そうしたらいちばん欲しかった親からの愛情というものは得られていたのだろうか それがおかした私のミスなのかもな 疲れた眠ろう
悲しい
自分で自分を傷付ける行為に頑張って対抗しようとする姿勢は強い意志と強い防衛本能をもっている証拠 ただ大自然の前にはあまりに無力だった 自分を守ろうと頑張ったことは素晴らしいことだった 自分の自由を守ろうと頑張ったことは尊いことだった 今までできなかったことを頑張ってよくやったんだ とても疲れた 理解してもらおうと懸命に努力した その努力は素晴らしかった 相手が言葉を持たなかったんだ 言葉を持たない自然とどうやって対話したらいいのだろうか それは言葉、会話では無理だ
相手が受け入れてくれる、許されると思うから、感情は爆発する。 でも、同時に、この人にだけは分かってもらいたいと思っていても、感情は爆発する。 親だろうが夫婦だろうが子供だろうが、基本的に「分かりあえない」という前提でつきあうのが大切だということ。 だからこそ、ちゃんと言葉を選ばないといけないし、言葉を尽くさないといけないし、会話することを諦めてはいけないと思っているのです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 意見が考えが合わない人と話す時 相手の考えは否定せず
カッターで首を切った。全然痛くなかった。 薬を大量に飲んだ。 薬が増えたのにこんななのか。 もうだめなんだと実感する。 残りの時間で彼女に何を遺せるのか。 そういえば意識が朦朧とするなか母親が熱心に通う宗教施設に電話した。 「母がいつもお世話になっています」「宗教二世問題についてどうお考えですか」と問うた。 「そういう問題もありますよね」そう言われた。 「そのような一般論のように捉えられるのは非常に残念です」と言って電話をきった。
人生で私が自由だった時はあるのだろうか これからもあるのだろうか いつも本質を考える私は、薬を飲むことで、考えることや感じることを否定されたような気がするけれど。 考える私も、私が感じる感情や感覚も薄れてしまったけど、その私が存在していたことは、本当は存在するんだってことは変わらない。そしてその存在は誰にも否定されることではない。 生きるために日常をなんとか平穏におくるために脳内物質をコントロールしているだけ。 考えても仕方のないことに時間も労力も精神力もさいていてもらど
この薬が増えると頭が思うように働かなくない。 でもこの薬が増える理由は理解できる。 頭が動く今のうちにメモをしておく。 「親子関係が苦しいならすてていい」という文言はよく見るけれども。 私の本音は苦しいけど捨てたくない、捨てたくなかった、でも捨てるしかない、というもの。 だから苦しい。割り切って考える、割り切って付き合うということが難しくて考えても考えてもどうしようもない迷路にいる。 この薬が増えたのは、疲れたから休めばいいってこと。 本当は飲みたくない。私が私でなくなるか
親に何度も何度も潰され 娘のために何度も這い上がろうともがく。 そんな人生だな。 すごく疲れた。 いい加減しっかりとした変革が必要だ。 宗教の洗脳を解くには宗教なのか? それは勘弁だし。 あの家を生きるには繊細すぎた。 世界は優しくはできていない。