迷路の中の希望
私にとって子育てとは、過去の自分に再会し、過去の親の行動と視点に対峙し分析する作業である。
トラウマに対面し自分が抱える問題を紐解き、自分の血・遺伝子・運命と呼ばれるものに全身全霊で抗おうという自分の人生の再理解であり再構築の作業である。
そしてその私とは全く違うものを持った娘という個体に自分が最も欲しかった自由を与え、彼女と共に、自分の苦しみを抑えてただ、日々を生きていくということである。彼女と遊び、話し、ケンカをして、仲直りをして、対等な個人として尊重しながら彼女との関係をつくっていくことである。彼女が興味をもつものを一緒に楽しみ、そこに少し手を加えて拡げ、共に成長していく。
彼女のことが大好きな気持ち、そして彼女からもらう考えられないほどの大きな「大好き」のおかげで人生の全ての痛みを覚悟を持って受けとめ、ただできるだけ生きていこうという挑戦である。
私の喜びや幸せは常に苦しみとセットになっている。
親への恨みをはらすとか子育てをもって自分を肯定しようなどという目的はなく、刹那の時を積み重ね、時に押し潰され、時に圧倒され、ただ、彼女に魅了され突き動かされる。
私の根源的な孤独は、物でも人でもどうしたって埋まらないことを理解している。一生付き纏うもので私の一部となっている。この苦しさを抱えながら隠しながら、娘と接するのはものすごく苦しい。
でももうしばらくは彼女にとっては必要な時間なんだろう。私が長く彼女の側にいることは悲しいけど彼女に悪影響を及ぼしてしまうことも理解している。
私にとって娘とは、私には抱えきれなかったものが彼女に渡った時、信頼できる他者を見つけ適切に頼り、彼女の方法で乗り越えられるかもしれないと、彼女なら軽やかにこの迷路の抜け道を見つけ出すのかもしれないと、私の欲しかったものを彼女なら手にすることができるかもしれないという、儚い希望を抱かずにはいられない存在である。
私が欲しかった「愛されたい人から愛され誰かを愛する楽しい人生」を送ってくれるかもしれないという、希望を抱かずにはいられない人。
私が知らないだけで、これをひとは母性と、無償の愛と呼ぶのだろうか。