312.逢っているときは何ともないが、逢わずにいると涙が出てしまう♪
1. 物理的距離間が近ければ近いほど物事が見えなくなる
「逢っているときは何ともないが、逢わずにいると涙が出てしまう♪」という歌があったね。
恋愛も、友だち関係も、家族関係なども会えば会うほど、距離が近ければ近いほど、物事が見えなくなる怖れがあるんだ。
ここでいう物理的距離間は「精神的物理距離間」といっても良いかもしれない。会っている回数や、より近くにいる関係だけのことではなく、その人の考え、思い方の「物理的距離間」のことをいう。
例えば、メールやラインがないと不安になる、
連絡がないと心配する、
一緒に入れば安心するが一人になると落ち込む、
不安は消え去らない。
確かに離れているよりも互いが傍にいることで安心する場合が多いかも知れないけれど、束縛感や独占欲が強すぎると互いが生き苦しくなるよね。
でも、それが、独占欲や束縛感の強い人にはそのことが見えなくなるんだよ。集団の中の孤独、家族の中の孤独というものに陥る可能性があるのさ。
これもcoucopuさんの実体験からなんだ。
また、この「物理的距離間」を持てないと我儘、自己本位となる。
それはね、相手が自分の都合で動いてくれない、という甘えが生まれ、親子関係でも友人関係でも同じように相手に対する配慮が出来なくなるからなんだ。
このように、物理的距離間が近すぎれば近すぎるほど、
相手のことがわからなくなるんだね(甘えになるのでしょう)。
昨年の1月の終わり、coucouさんの義理の母がなくなり、長い間介護をしていた娘は物凄い後悔の念でいっぱいだった。
その理由は、物理的(精神的)距離間を失なったため、身動きできない母親に対して怒りや憎しみが重なり、怒ったり怒鳴ったりしていた。
確かに実の親の介護は大変なことで、もちろん心配や不安もある、愛しているのも事実。誰もは同じ道を辿る。
でも、反面、日々いらいらとし、攻撃的な言葉となってしまう。
でもね、いざこの世からいなくなると深い後悔ばかり残った、という。
やむを得ない状況かもしれないけれど、
「面倒を見てやっている」
「嫌な事もしている」
「自分の生活を犠牲にしている」
「だから生活までも苦しい…」というようになり、ほっとした反面、悔やむことばかりだという。
これは当然のことなんだけれど、自分の思い通りにならないという反動からの思いだと、coucouさんは感じてしまうんだ。
このように年老いた親に対しては、誰もが心配しているという気持ちから口うるさくなったり、説教じみたりと親との立場が逆転することによって物理的距離間を失ってしまう。
物理的距離間とは計算して計れるものではないよね。
本当は、互いの関係を良くしたい、という思いから自然と距離が作れるものなんだからね。
関係を良くしたい、尊重したいという考え方が自然と相手を見ることのできる距離が作れるようになるんだよ。
2. ほどよい物理的距離間
心と心は距離ではなく、近くにいたからといって、見えるものではないよね。遠く離れていても心と心は通じ合うことができるとcoucouさんは信じている。
1年に1回のつき合いであっても、
互いの信頼関係があれば永遠に通じ合うことができるのだと思う。
また、その心は簡単に近づく場合もあるけれどが、
簡単に離れてしまう場合もある。
特に親子間は独占と束縛の固まりかもしれない。
ただし、生まれたばかりの子どもは違う。
この束縛と独占によって保護されているからさ。
でも、その子もやがて成長し、親から離れる時が訪れる。
そこで親は全力を尽くして育ててきたわけだから、親から離れていく子どもの姿を見るだけで強烈な寂しさを味わうことになつてしまう。
すると、前項の年老いた親に対するような、
考え方になり、独占や束縛するような考え方が強くなる人もいる。
すると、子どもたちはおそらく嫌がり、離れてしまう。
それも自然なことかもしれないけれど、
親にしてみれば虚脱感しか残らないかもしれませんね。
でも、物理的距離間を持てると、我が子を信頼できるようになるわけだから、無用な心配事が少なくなる。
我が子の成長に安心感を覚えて、信じるだけで良いのだから、
そこから親子間の場合の物理的な距離間が生まれ育ち始めるように思う。
coucouさんの父の口癖は、いつも「いいんだよ!生きていてくれるだけで。生きている以外に何を求めるのかい!元気で幸せならそれでいいのさ!」と言っていた。
3.自分だけの自分勝手な都合
人は誰もが「自分の都合で物事を判断」している。
例えば人を好きになれば「あばたもえくぼ」というように、
その相手の欠点が見えなくなるよね。
それが実際に欠点だったとしても、
まるで気にならなくなるはず。
また、相手が嫌いな人でしたら、
たとえその人の良い部分があっても欠点に見えてしまう場合もある。
このように、たとえ正しい事でも「自分にとって都合の悪い事」ならば間違いとして捉えてしまうし、間違ったことでも「自分に都合の良い事」であればそれが正しくなってしまう。
そこで、物事の判断材料として「物理的距離間」が重要となるんだ。
「立派な事ばかりいっているようだけど、実際のあなたはどうなの?」という声が聞こえた。
はい、実際のcoucouさんはね、みんなが考えている以上、
いや、みんなのの百倍以上の「物理的距離間」を作れない達人だったからさ。
恥ずかしながら60歳を超えてから気がついたんだ。
だから、こんなcoucouさんだから充分に説明できる権利があるように思えたんだよ。
この「物理的距離間」はスポーツや格闘技などでも充分に科学的にも説明できるものなのだけど、coucouさんの場合は一切信用していなかったんだ。
その理由は「先手必勝」「攻撃は最大の防御」「先に手掛けたものの勝利」という考え方のため、攻めることができても、守りや受けがどうしてもできない。(空手では先手なしという言葉がある)
それに、そのようなもの、そのようなことは必要ないと考えていたからなんだ。
物事のすべては一生懸命に生きて、最善の努力をしてきたのだけれど、攻めて、攻めて攻めまくる猪突猛進型だったため、まさに「妄信」「盲信」「盲進」の人生だった。(今考えると、どうすることのできない欠陥人間だった)
もちろん相手との距離間などないのだから、変なサービス精神旺盛で、正しさの押しつけで、強引、傲慢、自己満足、自己陶酔型、エゴ、自分勝手なため誤解はもちろん、騙されることはもちろん、逆に利用される、何よりも相手に負担を与えすぎたり、相手を傷つけたり(もちろん自分も傷ついていますが)、誰も止めようのない暴走タイプだった…。
おそらく、coucouさんの凄しい酷さをマネしたり、
越えたりする人はいないでしょう。
でもね、どうしてそうなったのか、というと、
「物理的距離間」がまるでわからないための無駄な行動、
無駄な動き、無駄な考え方などを繰り返し続けていた。
そのためいつも心は不安定、恐れの固まり、誰をも信じる事ができない有様。それだけ自分の選んだ人生が苦しすぎたのかもしれないけれどね。
なぜそんな人生を選んだのか、といえば異常と思えるほどの劣等感の大固まり、超固まりだったから。結果はもちろん大失敗となった。
物事の後悔とか、失敗のほとんどは、
「自分の都合で物事の判断」をするために起る現象のひとつ。
だから、「自分の勝手な都合」ほど、間違いだらけなのかもしれないと思うようになった。
物事を正しく感じ、正しく見る目というのは、
この物理的距離を保つことによって、
相手に対する配慮や尊敬が生まれ、
相手の幸せを心から願ったり、
愛したり、思ったり、することによって、
人生観はまるで変り、人生が好転しはじめるような気がする、最近のcoucouさん。
これが、人生を楽しく、幸せに生きる方法なんだよね、きっと。
coucouさんです。みなさん、ごきげんよう!
考えてみると、coucouさんってどうしょうもない人だったんだね。
まず、相手の気持ちがわからないという達人。
何もわからない、何も見えないという達人。
自己中~、まだまだ、無限の欠陥人間。
とても偏った人生を送ってきた。
だから、こんなことが言えるのかもね。
そしてね、みんなは全く違うとは思うけれど、
coucouさんの生き方は反面教師としてはお役に立つのかもしれないけれど、お勧めはできないことばかり。
「逢っているときは何ともないが、逢わずにいると涙が出てしまう♪」
中学生の頃、こんな歌を聞いた。タイトル「恋」歌:布施明 作詞:平尾昌晃 作曲:平尾昌晃だ。
でも、これって今思えば、素敵な片思い的な恋歌なんだけれど、「物理的距離間」は保っているけれど、「精神的距離間」は独りよがりな純粋な恋?こんな、一方的だけど誰にも負担や迷惑をかけない距離間もある?。
でも、本心は逢いたい、逢い続けたい。
相手がどう思うともせつなく苦しく、逢いたい。
これって家族も同じかもしれない。
coucouさんたち親は、子どもたちに恋している、愛している。
逢いたい、しかし逢えない。
こんなにも思い、こんなにも心配し続けているのに連絡もないcoucouさんの子どもたち。(親子の物理的距離間を保てないcoucouさんの思い)
coucouさんの父にしてみれば、きっと笑うだろうね。
「それ以上の何を求めているのか?」と。
でもね、このままだと、
明日coucouさんがこの世を去ってもわからないだろうなあ。
こんなに逢いたいのに、こんなに愛し続けているのにわからない。
こんな「物理的距離間」は大っ嫌い。
まだまだ続く567。
少しばかり緩和されてきたようだけれど、みんな心の中は怖れている。
病院ではまだまだ自由な面会ができない…。
年老いた、父や母がいる人たち。
もう、あまり時間はない。
coucouさんの友人たちにも物凄く多く病院やホームに閉じ込められている。
だけどね、逢いたい人がいれば、逢えばいいんだよ!
反対されたって、嫌われたっていい。
逢いたいと思う時は、迷惑をかける場合もあるかもしれないけれど、
そんなときは、「物理的距離間」なんか、外せばいい。
それは、かけがえのない人、
愛する人たちにはこの距離は必要ないかもしれない、
と思うcoucouさんです。
お~い。
cocuouさんの子どもたち、
coucouさんが生きているうちに逢いに来なさい!
連絡ぐらい寄こしなさい!
ずうっと、待っている、
我儘で自己本位のcoucouさんより。
「恋」
恋というものは
不思議なものなんだ
逢っているときは なんともないが
さよならすると 涙がこぼれちゃう
逢うたびに うれしくて
逢えば 又せつなくて
逢えなけりゃ 悲しくて
逢わずにいられない
それというのも 君のためだよ
ぼくのこの胸も 恋にふるえてる
逢えばそれだけで 楽しいくせに
わかれたあとの 涙がつらいのさ
逢うたびに うれしくて
逢えば 又せつなくて
逢えなけりゃ 悲しくて
逢わずにいられない
そんな恋だけど 君が好きだよ
ぼくは君だけを 愛しつづけたい
ぼくは君だけょ 愛しつづけたい
「恋」歌:布施明 作詞:平尾昌晃 作曲:平尾昌晃より。
では、また明日~
みんな、読んでくれて、ありがとう!
感謝、感謝の雨あられ~
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