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クラシック 記事まとめ

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クラシックの楽曲・作曲家などについて書かれた記事をまとめていく公式マガジンです!主にハッシュタグ「#クラシック」が付けられている記事を自動で追加し、紹介していきます。
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#楽譜

イギリスにおけるJ.S.バッハの再発見と『平均律クラヴィーア曲集』(200)

1802年3月にアミアンの和約が締結され、フランスとイギリスが一時休戦となると、クレメンティは弟子のフィールドを引き連れて大陸に渡ります。1802年8月にパリに到着し、ここではクレメンティと同じく楽譜出版、ピアノ製造の事業に乗り出した音楽家であるイグナツ・プレイエル(1757-1831)との商談が主な目的でした。 フィールドはパリでコンサートに出演しましたが、中でもバッハとヘンデルのフーガの演奏が聴衆を驚かせたと言います(「その正確さと真似の出来ない彼の感覚にパリの聴衆は極

切実な音楽、個性、自分だけの解釈

久々のnote。最初は特に理由もなく Threadsに呟いてたのだけど、 ついさっき呟いた内容が Threadsに書くには長すぎる&個人的な話すぎるかなと思って、noteに戻ってきました。 この前のレッスンでショパンのプレリュードを 演奏して、言われた言葉。 ずっと同じ曲を弾いてると、表現がマンネリ化してきて、目の前の音楽に対して新鮮な感じ方ができなくなっている自分がいて。 そんな私の演奏を聴いて、先生が発した言葉。 うすらと自覚はあったけれど、 ずしりと重く心にのしか

ロンドンの神童、フィールドとピント(199)

ジョン・フィールド(1782-1837)は、1782年7月26日にアイルランドのダブリンで、ヴァイオリニストのロバート・フィールドの長男として生まれました。例によって彼も神童であり、1792年3月24日、9歳のときにピアニストとしてコンサートにデビューし、地元の新聞で絶賛されています。 1793年に一家はロンドンに移住し、父親は息子をクレメンティに弟子入りさせます。クレメンティはベックフォード卿に金で買われてローマから連れてこられましたが、フィールドの場合は逆に父親がクレメ

音楽史17『近代音楽の誕生』

 「近代音楽」とはクラシックの流れを汲む20世紀初頭の音楽の事で、音楽理論が一気に制約から解き放たれることとなり、また、この時代には当然、リヒャルト・シュトラウスやマーラーなどといった後期ロマン派の巨匠作曲家達も活動を続けていた。  19世紀後期のフランスの作曲家クロード・ドビュッシーは西洋とは全く異なる体系のインドネシアの「ガムラン音楽」に影響を受け、その後にワグネリアンに限界を覚え、大詩人マラルメのサロンの下で様々な技法を試み、管弦楽曲の『海』『夜想曲』『牧神の午後への

クレメンティとモーツァルト(195)

1781年のクリスマス・イヴのこと、後のロシア皇帝パーヴェル1世と妻のマリア・フョードロヴナ(ヴュルテンベルク公女ゾフィー・ドロテア)がウィーンを訪れていました。当時二人はセヴィニー伯爵夫妻という偽名でヨーロッパを巡る旅行中だったのです(ちなみにこの後1月にはヴェネツィアでピエタの演奏を聴くことになります)。もちろん偽名などは公然の秘密であり、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世の宮廷では夫妻を迎えて盛大な歓迎会が開かれていました。 そしてその余興として、皇帝のお気に入りのモーツ

男性アイドルの元祖フランツ・リスト

今回はフランツ・リストの話。 彼の曲を貼ってから書きはじめる。『The Consolations No.3』。 『リストマニア』という映画があるらしい。 大丈夫そ?と思われるようなビジュアル・イメージなのだが。これで “いい” のだ。若き日のリストは、約9年の演奏ツアーで、前代未聞のセックス・アピールを誇った。 1811年、ハンガリー生まれ。ヨーロッパ各地で活躍したピアニスト 兼 作曲家。 当時、ヨーロッパ中が彼に熱狂した。彼を「世界初のロック・スター」と呼ぶ人もい

東京オペラシティで泣きそうになり新宿駅で叫びそうになる

昨日私はとても幸せだった。ほんとに満たされて駅のホームででっかい声で歌いだしそうになるくらいに 人の脳って幸せを忘れるようにできてるらしい 次の食料を探し棄権に備えないと生き残れなかったから なので20時間でもう結構消え始めてるものをここに書いとこうと思う ミシェル・プラッソン(指揮) 日本ラストコンサート Au revoir! 〈東京二期会プレミアムコンサート2024/最愛のフランス音楽~フォーレ「レクイエム」とラヴェルの名曲〉というのを発見。 詳細を見ると ラヴェル

スペインの初期ピアノとアルベロのソナタ(194)

フィレンツェのバルトロメオ・クリストフォリ(1655-1731)の発明したピアノは、当時イタリアではほとんど普及しなかったようです。もしイタリアでピアノがたちまち大流行していたら、今この楽器はイタリアでの通称であった「マルテレッティ」と呼ばれていることでしょう。 一方ドイツやフランスではジルバーマン一族によってクリストフォリのピアノのコピー品が製造されましたが、極めて複雑で高価なため、次世代鍵盤楽器の主流とはなりませんでした。その後のピアノの歴史はクリストフォリのピアノに比

勝手に書き続けるテンペスト練習(他)

喫茶店で昼↑のあと、もう甘いもの控えないとと思ったばかりなのにまた隠れ家みたいな素敵なカフェにいっちゃって そういう所ってケーキの上にハーブが添えてあったりするじゃないですか いい香りがするねとか言ってたそれを うちの奥さん持って帰って育ててた 名前もわかんないけど2本のハーブ笑ってるようにも見えて メンタル下がる そのカフェで、誰もなんにも悪くないんだけどメンタル下がってこういうの書くのもやめようかと 多分すごくいいお店だから変なこと書かずに置いといて メンタルの安定

魅せるピアノ演奏: 両手の交差

ピアノ演奏には トリルやトレモロといった連打 爪を鍵盤上を滑らせるグリッサンド glissando ダンパーペダルを半分だけ踏むハーフペダル 全ての音を弱音に変えてしまうソフトペダル ソフトペダルよりも音が大きいけれども音が抑制されるマフラーペダルを踏む など多彩な表現が求められます。 グランドピアノは大変な巨体を持つ複雑極まりない楽器。 精密機械であるピアノの持つ多彩な音響機能をフルに出し切るには、さまざまな技術を駆使する必要があります。 演奏会でピアニス

「ヴァイオリン伴奏付き」鍵盤ソナタについて(183)

これら K. 6 - 9 の4つのソナタは2冊に分けてパリで出版され、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの最初の出版作品となりました。ちなみにモーツァルトは1756年1月27日生まれで、この手紙の時点でもう8歳でしたが。 そして現在は「ヴァイオリン・ソナタ」とされることの多いこの曲集の本来の題名は『クラヴサンのためのソナタ集、ヴァイオリン伴奏付きで演奏可能 Sonates pour le Clavecin Qui peuvent se jouer avec l'Acc

J.C.バッハとモーツァルト(181)

1725年に書き始められた2冊目の『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』の中でも、一際稚拙な筆致で書かれたヘ長調の無題の小品(BWV Anh. 131)、これはJ.S.バッハの末息子であるヨハン・クリスティアン・バッハ Johann Christian Bach(1735-1782)の幼少時の作品(W. A 22)と見られています。 1750年7月28日に父のJ.S.バッハが亡くなった時、ヨハン・クリスティアンはまだ14歳でした。彼は異母兄であるベルリンのC.P.E.バッ

藤田真央【円と線で紡ぐ音②】

前回から約3週間ぶりの、藤田真央さんピアノリサイタル。 場所は、札幌コンサートホールKitara。 前回の公演は何だか考え事が多くて…私の耳がついて行けてなかったよう。 普段なら公演の帰宅後、すぐに絵を描き始めるのですが、そんな気分にもなれず、何となく習作を描く程度でとどまっていました。 あと、もう一つ。 前回の公演期間は、まだシフの音の描き始め段階だったんですよね。 私、異なる演奏者の音を同時進行で描くのが苦手みたいで… 以前、ベネデッティ ミケランジェリのショパンを制作中

ベネデット・マルチェッロのチェンバロ・ソナタ(165)

ベネデット・マルチェッロ(1686-1739)はヴェネツィア貴族の一員で、法務関係の公職に就きつつも、ディレッタントとして作曲を手掛け、様々な音楽分野に多くの作品を残しました。 彼はアントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)とは甚だ仲が悪く、『当世流行劇場 Il teatro alla moda』(1720)という当時のオペラハウスを風刺したパンフレットを匿名で出版し、ヴィヴァルディらを散々に皮肉っています。 このタイトルページの絵で、船の舵の上に乗っている聖職者の