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純文学を読まない理由

 恋愛に興味が無いから。
 自分は谷崎とか読んだ分母が少なく、細雪、みかん、恋愛怪談、しろばんば、くらいしか読んでおらず、ジャンルの傾向を判断するには早いのかもしれないが、純文学で評価されている作品の概要や感想を読む限り、異性への好き嫌いやセックスへの執着が激しいと感じる。どうやら恐らく三島は違うらしいのだが。
 自分は恋愛に興味が無い。
 というのも10代と20代で充分に恋愛をしてきたので、娯楽作品や芸術作品に恋愛要素が自分には不要なのだ。そういう意味で、からかい上手の高木さんの序盤は恋愛あるあるで楽しめた。中盤以降はネタが尽きたのかただの萌え消費になり読まなくなったが。
 かつてはラヴコメ漫画なども読んできたが、子供の頃は楽しかった。しかし、現実の恋愛を経て、男向けにせよ女向けせよ、根拠なく相手に好かれるテンプレが自分には吐き気がするほど不愉快になったので、読むのをやめた。
 例えば恋愛怪談という白黒の古い映画がある。これは小説を原作としているのだが、これは良い映画だった。何故なら恋愛を価値観の1つと捉えて、恋愛以外の価値観や人生をちゃんと見せていたから。
 自分は恋愛要素を全否定するつもりはない。ただオタク腐女子の現実に恋愛関係を構築出来ない分際で異性を消費するというのが不愉快なだけだ。自分もオタクであるが、特にアニメ、ゲーム、漫画の世界において、男が描く女と女が描く男の稚拙さには苛々する。
 経験上、男が監督をして女が脚本とか、女の原案で男が作画するなど、そういう作品はバランスが取れていて面白い。男女ともに互いに突っ込みが必要だ。
 娯楽作品は願望を表すものだし、それは正しい姿だが、それは神話や寓話が示すように、主人公に倣って自分は一体何が出来るのか? 何を目指すのか? 物語とは成長を促すものであって、人生を停滞させるものではない。
 氷河期世代のオタク作品が、氷河期世代の精神年齢を停滞させたとあるが、これは半分正しく、半分間違っている。
 https://gentosha-go.com/articles/-/64304
 バブルとその残滓により、80年代後期から90年半ばまでアニメ、ゲーム、漫画は隆盛を極め当時の子供達は熱狂した。この辺りが一般とオタクを混在させる端境で、まだこの時代は、大人が子供に向けた作品があり、大人の価値観を子供に教える体裁も残っていたし、何よりも自分(主人公)に何が出来るか、何を成すべきか、という教育的な側面が残っていた。
 それが崩れた始めたのがエヴァやナデシコなどを契機に90年代後期から00年代前半に台頭する世界系と萌えの台頭。自分はカウボーイビバップや人狼Jin-Rohなどハードボイルド、恋愛よりも生き様を示す作品を好きな人間だったので、移り変わったオタク腐女子の異性消費に乗れず、段々とアニメや漫画やゲームと距離を取り始めて、洋画に走った。
 その理由はクリストファーノーラン。カウボーイビバップも人狼もクリストファーノーランも恋愛要素はあるが、恋愛が目的では無い。恋愛は人生の断片に過ぎず、恋愛以外の行動の中に恋愛が含まれるに過ぎない。カウボーイビバップと人狼が若い理由は、主役の年齢がそこそこいっているが、次世代の事を考えられていない点でまだ未熟。クリストファーノーランは自身が子持ちでもあり、自身の価値観を隠さずに投影して、独身時代も親時代も両方を描いている。彼が偉く信頼に足るのはそういう点がある。インタステラーでは良い親、オッペンハイマーでは悪い親を描いている。
 萌えやラノベなどが純文学と比較出来る時点で、自分には純文学も同じレヴェルなんだろうな、と認識している。自分が何を成すかよりも、異性を中心とて自分が何をされるかに主眼がある。当然ながら、それに当てはまらない作品も山ほどあると思うが、自分が小説に限らず本に明確に求めている要素があり、それが以下である。
(1)新しい知識を授けてくれる。
(2)語彙を増やしてくれる。
(3)凡人にはわからない天才だけの価値観を提示してくれる。
 純文学には基本的に2しか無いように思える。古い言葉や、古い価値観に新鮮味は覚えるが、自分が死ぬまで有効な知識と価値観の両方を与えてくれるような作品は無いんじゃないかと思う。良くも悪くも感傷的な要素に甘んじて凡人に擦り寄ってる印象がある。自分がオタク系の文化から離れたのも同じ理由で、絵を描かない、音楽もやらない、文章も書かない、勉強もしない、自分で何も出力せずに消費に甘んじ、業界もまたそれを迎合してきた事、それが今「推し活」という見事に醜悪な形で結実している。
 ゲームも本来は知的作業で頭を使う刺激的な娯楽の筈なのに、過剰にプレイヤに擦り寄り依存や引き籠りを生み出し社会性を奪っている。
 純文学の良い所は社会性だろう、基本的に人間関係を是として、否が応でも社会との関わりを示す。社会不適合の形もあるが、社会を切り捨てない。自分を社会の一部と認識する。そういう意味では10代や20代で読む価値はあると思うが、しかし若者には刺激が少ないのもあり、中々に浸透しない。
 純文学の1番売れた作品が2000万部で、ラノベなろう系は4000万部らしいので、純文学は足元にも及ばない。売れた作品だけが良い作品、という事にはならないが、売れない作品にはもう少し売れるだけの要素が必要で、売れた作品には媚びる以外の自制が必要。
 映画なんぞ顕著だが、歴代トップ10の作品で10年後にまで語り継がれている作品なんぞほとんどない。瞬間風速が凄いだけで世代を跨いだ価値観をほとんどの作品が提示出来ていない。
 そういう意味で純文学は商業的に苦しいが語り継ぐ人間がいる時点で長期的には勝利している。とは言え、漫画やアニメが国の産業として認められた時代に、それに付随するラノベなろう系は益々盛り上がるだろうし、いずれ停滞して常識として塗り変わり、文字だけで盛り上がる純文学は分が悪い様に思える。
 自分はアニメやゲームにならない作品を読むのに抵抗は無い。テッドチャンや京極夏彦など映像化されていない作品を読むし、映像化されていても映像のほうは見ない。
 自分はラノベなろう系と同様に純文学も読まないが、流行のサイクルでいずれ純文学が盛り上がる事もなくはないかと考えている。しかし、そもそも時代や価値観を示すのに純文学は仕事を終えたのではないかとも思える。SFやミステリィがもはや舞台設定の常識となったように、ある登場人物の感情や価値観のみに焦点を合わせたような作品は、今では一般人のSNSブログが担っているし、それをうまく起用した娯楽的な刺激も忘れない作品が強く評価され時代を表すのではないかと思う。
 その中に10年後100年後まで語り継ぐ価値がある作品がどれだけあるのか、それはわからない。

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