この物語の主人公であり、書き手でもあるサリーム。物語はサリームの祖父がドイツに留学し帰国するとイスラム教徒が強いられるお祈りの実行を不合理だと考えるなどのシーンから始まりました。その娘の一人がサリームの母で、パキスタンとインドに国が二分されたことにまつわる戦争が起こり苦しめられます。幼かったサリームはそんな親について回る程度の存在だったのです。しかし次に起こったパキスタンからパングラデシュが分離することになる内戦では 21 才になっていたサリームは、パキスタンの兵士としてダッカの近郊で苦しみます。この戦争を生き延びたサリームは、時の首相のインディラ・ガンジーにひどい仕打ちを受けることになります。
今回の読書対象は、 "Midnight" と題された Episode 29 です。この Midnight は "Midnight's Children" の Midnight ではなくて、インディラ・ガンジーの所為で世の中が真っ暗になった一時期(約 1 年間)を指しているようです。
1. 隠喩の形での生活者とその当時の政治の世界、双方の有様が描かれます。
暗黒の期間の表現には、サリーム個人の苦しい日々と、マクロコスモであるインディラの独裁下にあるインドの国民の日々とが互いに似た者同士、互いを隠喩し合う関係 metaphorical expression として語られます。
2. 互いに異なる気質を持つ父と子、サリームとアーダム。生まれた時代の違いがこの二人の違いを生んだと強弁することで、二人の気質・特徴が読み手の頭に印象深く刻み込まれます。
前段、1. に引用したくだりにつづいて、次から次へと様々な出来事がこのような一対に仕立て上げて描き出されるのかと思いきや、直ぐに別の手法があらわれます。
作者ラシュディーが次に繰り出した手法は、二人の主人公のキャラクター、これまで何度となく表現してきた二人の主人公それぞれのものであるとされる性質のいくつかを取り上げて、それらをそのまま、この児の性格として譲り渡すというものです。読み手は一瞬にしてこの児の性格、人格が解ったような気になります。まだ1才にならない、話もできない一人の幼児のイメージが明確に読み手の脳に刻まれることになります。
3. 「ゾクッとする寒さ」で読み手を楽しませる仕掛け
シーバの子供を身ごもっていたパーバティと形式上の結婚をしたサリームは、病に苦しむ、まだ生後数か月のこの児の世話にパーバティと共に右往左往していました。その表現の中に妙に気に掛かる、やや唐突な語句が現れたのです。迷信に引きずられあれやこれやの怪しげな薬草を試したもののうまく行かず、そんな薬を否定するサリームにやがては従うようになったのです。
次の引用は今回のエピソードのほゞ最終部分からです。緊急事態宣言を発して反対勢力を萎縮させ、貧民窟を軍隊に蹴散らかせたインディラ・ガンディ政府が左派・右派・極右の寄せ集め集団に選挙で敗れ去った後のことです。
サリームがアーダムの養育を引き受けるべく結婚までしたのですが、実の父はシーバです。ラシュディは、シーバの死のシーンに出てくる「人の性格」を表す為に選んだ表現を、この小説の別の箇所に出てくる「アーダムの性格」を表す表現と一致させていたのです。
4. Study Notes の無償公開
今回投稿の読書対象である Episode 29 "Midnight" 、原書 Pages 589 - 618 に対応する Study Notes を無償公開します。例によって今回のファイルも A-4 サイズ用紙に両面印刷すると A-5 サイズの冊子ができるように調整されています。