小説の「読み方」について、僕の考えを話したい。
「はい、これが擬人法ですよー」
国語科の教員は、黒板に淡々と「擬人法」と書く。まるで書きなれたかのように指先に持ったチョークがカッカッと音を立てている。それが擬人法である事実はあるにせよ、擬人法によって小説の読み方がどのように変わるかまでは、教員の指導に差が出る教科である。
書き手の主張や思想があり、明確な答えがあるのが評論。読み手の解釈によって作られるのが小説。と、ここでは仮定しておこう。
小説は物語であり、そこにある登場人物の行動や心情は書き手にしか分からない。作者が存命ならば、極論、作者に直接聞けばその正解はわかるかもしれないが、存命ではない作者の場合、物語の解釈は読者一人一人に委ねられる。その作品がどのように読まれ、どのように解釈し、どのように意味付けができるか。そういった議論を重ねたのち、作品に対する権威があがり、やがて誰もが知る古典作品になりえるだろう。
先日投稿したこちらの記事。
色彩語である「青」がもつイメージには、「海」や「空」といったものが連想され、様々なニュアンスを含む語であり、なかなか「青」という語の辞書的な説明が難しい。またこれがやっかいなことに、「青」にはネガティブなニュアンスをも含むことだ。「気持ちがブルーになった」や「ブルーな気分になった」のように憂鬱をあらわすこともあり、油断ならない。
学校の授業ではそういう説明があっても、それが「小説の読み方」にどのように繋がるかまではなかなか説明されない。
ためしに、小説に対して「どのような読み方ができるか」について、いくつか作品をあげて解説してみよう。以下は、あくまで「こういう部分に注目して読むと面白いかもね」程度なのでそれふまえてお読みください。
関係性の変化に着目すると面白い‐綿矢りさ『蹴りたい背中』
冒頭は主人公・ハツの1人称視点から始まる。あまりにも有名なのがこの書き出し
「さびしさが鳴る」の一文でいえることは、まずさびしいというのは感情であり音が鳴るものではない。そんなさびしいというものにまで音が聞こえてくるくらい、繊細でとても気難しい性格の主人公なのだろうと伺える。
「私は友人からは気難しい性格だとよく言われる」という書き出しから始まっても、「あぁ、そうなんだ」ということ以外にならず、小説としてはとても陳腐に思える。それに比して「さびしさが鳴る」という一文でそういった読み方ができるのが小説を読む上での面白さである。こういった読み方は正解か不正解があるのではなく、そういった読み方ができるということである。
「さびしさが鳴る」という書き出しが、あまりにもキラーフレーズすぎるがゆえ、この場面が一体何なのかを知っている人はあまりいないように思う。『蹴りたい背中』の面白さはこの続きにある。
読みといてみると、主人公は「さびしさが鳴る」からその音を消したいのだと言う。その音を消すために「私はプリントを千切る」のである。主人公はなぜその音を消したいのか。それは、「せめて周りには聞こえないように」。つまり周りに孤独だと知られるのが、嫌だからだ。 この周りとは誰か。それは、同じ理科室で授業を受けている、同級生たちである。『蹴りたい背中』の冒頭はこのようにして始まるのだ。主人公は一匹狼で他者との関わりをあまり持ちたくない人なのだと読むことができる。
その中、主人公は「にな川」という同じクラスの男の子が、男子高校生が読むとは思えない女性ファッション誌を読んでいるところを見かけ、主人公は興味本位でにな川に声をかける。主人公はにな川が読んでいた女性ファッション誌にうつっているモデルを昔見かけたことがあると言う。これがきっかけとなり、主人公とにな川の、友人でも恋人でもない奇妙な交流関係が続く。
この『蹴りたい背中』は一言で言ってしまえば「一人でいたいと思っていた主人公が、他者との交流をもつようになる」お話である。最終的には「にな川の背中を蹴る」場面で終わる。
主人公の「背中を蹴る」という行為は、「自分以外の誰かを初めて人間として意識した」という比喩である。と、僕はそのように解釈した。そう考えると、作品の頭から読み返してみると場面の節々に合点がいくようになり、作品が2倍楽しめるのである。
余談だが、『蹴りたい背中』の面白さが際立つポイントとしてはまず舞台設定にある。高校を舞台にしたそこらへんにいる男女2人という設定がいいと思った。登場人物があまりにも多すぎると、読んでいる僕としては頭の中がとっちらかる。舞台設定も「誰しもが馴染みのある場所」にしているのもいいと思った。だから物語にすんなり入れるし、普通の人間の思考に比較的近い人物で描かれているので読んでいて面白い。
『蹴りたい背中』のように比較的、「どこにでもある場所」と「そこにいる普通の人」で構成されている物語ではあるが、これがもしSF作品だったら読み方がガラリと変わってくる。
まず「どのような世界なのか」と「そこにいるのはどんな人たちか」がわからないともう面白くない。設定が面白くないとすぐさま読者を置いてけぼりにしてしまうし、「小説を楽しく読む」うえで難解なのがSFである。比較的に読みやすいのはライトノベルになる。とくにここ10年で流行っている異世界転生ものだ。なぜ異世界転生ものが流行るのかというと、RPGのような世界がゲームを通じて浸透したこともあり、異世界が身近な存在になったからである。ためしにSFものを読んでみるなら、手始めにライトノベルから読んでみてもいいだろう。
純文学において、最初と最後でどのように対比されているか‐村田沙耶香『コンビニ人間』
純文学をより楽しく読むことを考えるうえで非常に良い作品は、村田沙耶香『コンビニ人間』であろう。
書き出しはやはり作品全体を象徴する部分なのでこの部分はじっくり読んでおきたい。
作品全体を読んだうえでこの書き出しを読んで思うのは、よく『コンビニ人間』を読んだ感想として「普通とは何か?」とよく解釈される。その「普通」というのは、たくさんある中での「普通」であり、そこには多様性みたいなものにもかかってくる問題でもある。冒頭にあるコンビニの店内で流れるいろんな音があって、いろんな人がいてそれが世界であると考えることもできる。これが冒頭であるとするならば、それに比して作品の最後の段落を読んでみよう。
最初と最後で共通している話題はやはり「音」である。冒頭において、主人公は「コンビニの中で聞こえてくる音だけがこの世界のすべて」と思っていたのに、最後になってくると「コンビニ以外から聞こえてくる音の世界に目を向ける」ようになってくるのである。「ガラスの向こうで響く音楽に呼応して、皮膚の中で蠢いているのをはっきりと感じていた。」がまさにそれを示している。それに加え、(読んだ人ならわかると思うが)主人公はコミュニケーションが苦手であり、最低限の関わりしかもたず、「普通」というものがよくわからない性格であるとされている。「ガラスの向こうで響く音楽に呼応」しているのだから、自分の中からも音を出しているのである。このあと主人公がとる行動といえば、「コンビニ以外の場所で、生まれ変わった自分として生きていく」のではないだろうか。主人公にも「生まれたばかりの甥っ子」、つまり赤ちゃんみたいなものが自分の心の中に芽生えたのである。
ここまでくると「それってあなたの感想ですよね」と言われかねないが、たしかにそうかもしれないが、ただそうとも読めるというだけのことである。作品の中に根拠さえあればどんな読み方をしてもよいと思うのである。
恋愛小説において一番の肝は会話である‐角田光代『愛がなんだ』
恋愛小説の読み方において着目すべき点は「会話」である。もし恋人関係にある2人なら近い関係性だからこそ「その2人しかできない会話」が見れるのと、どちらかが片想いしているとしたら「ぎこちない会話」が見れるからである。とくに後者の例として角田光代の『愛がなんだ』が挙げられる。映画で知っている人の方が多いと思うが、小説もめちゃめちゃ面白い。
あらすじとしては、主人公・山田テルコは、友人が開催した飲み会で、マモちゃん(田中守)という男性に出会う。マモちゃんに出会ってからテルコの叶わぬ片想いが始まる。というお話である。
マモちゃんに対する愛が強いのもそうだが、マモちゃん自身はまったくその気がないので、決して叶わぬ2人の関係性がとてつもなくエモい。
以下の引用は、居酒屋で遅くまで飲んでいたテルコとマモちゃんは、朝方、タクシーでマモちゃん家に行く場面である。
僕はもう良い大人なので、朝方までお酒飲んでそこからタクシーで帰るということをしないので、この2人のやり取りがすごく新鮮に思えてくるし、「へっ、いいの?」という返事につい「あ、かわいい」と妄想してしまう。このあと片想い中の男性から「うちくる?」と言われたらそりゃ素っ頓狂な返事になってしまうわな。この場面が、いかにも片想い中の男女の会話だなという感じがする。
天候によって表される人物描写が面白い例‐芥川龍之介『羅生門』
『羅生門』の書き出しである。タイトルでもある「羅生門」とは、平安京の正門「羅城門」のことである。
なぜ「この男のほかに誰もいない」のか
もうすこし先を読んでみると
とある。「平安京」というと、貴族が暮らしていた煌びやかなイメージを想像するだろう。
しかし、そんな煌びやかだったあの平安京ではなく、荒れすさんだ平安京が舞台であること。また平安京が舞台になっているので、少なくとも平安時代以降、かつ作者・芥川龍之介が生まれた明治以前と言える。
(作中で年代が明らかでない場合、その小説が出版された年の近辺と考えていいだろう)
舞台設定がわかれば、このあとの展開が容易に想像できる。
この物語は煌びやかだったあの頃の平安京と対比して、荒れて退廃した平安京を舞台に、これから何かよろしからぬことが起きる話である。
どの小説でもいえることだが、読んでいて「よくわからない」という状況に陥るのは、表現技法をしらないためにある。
表現技法の1つや2つを知ると、かなり作品に対して理解が深まる。
天候と人物の心理状態を重ね合わせる表現技法は、頻繁に使われる。先の引用はその典型的な例である。いわゆる比喩で、その中でも暗喩という技法だ。
「雨」「夕闇」「重たい」「薄暗い雲」とあると、ネガティブなイメージを連想をする。
誰しも、雨が降ったら嫌な思いをしたことがあるだろう。薄暗い雲は「これから雨が降りそう…」「雷でも鳴るのかな…」とどこか不安な気持ちになったりする。
それを今の主人公の心理状態と重ね合わせているのだ。つまり、主人からクビを言い渡された下人は、途方に暮れ、行き場のない、これから何をしたらいいのか、検討もつかず、不安に押しつぶされている様子が描かれている。
単に「雨が降っている」ことだけを言いたいのならば、こんなに回りくどい描写はしない。
さいごに
自分の中で楽しく小説が読めていればすべてオッケーなのである。自分で勝手に妄想を繰り広げてもいいし、自分の解釈で好きなように読んでいい。小説の中に根拠さえあればどんな読み方をしたって良いのである。
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