人生で初めて映画館貸切で観た「東京2020オリンピックSIDE:A」。
■スポーツ番組的五輪の終焉
降りしきる雪の中を流れる川の姿に
弱々しい君が代が重なるプロローグ。
「中止だ中止」のプラカードの文字。
新型コロナウイルスの治療に忙しい
医師や看護師の姿を普通にはさんで、
ドローンが夜空に地球を描く時まで
選手や国立競技場など映さなかった
河瀬直美監督はいわゆる記録映画に
人が抱く期待は裏切ったと言えよう。
多くの人々を沸かせた女子バスケに、
選手どころか育児のために引退した
元選手、大﨑佑圭を据えたように、
史上最速を競う陸上100mをはじめ
スポーツ番組的に注目された競技を
無視する決意は、首尾一貫していた。
大﨑が女子バスケをテレビ観戦する
シーンに長女の鳴き声が重なるとき、
河瀬直美が、競技者の美しさでなく
新型コロナウイルス禍に翻弄され、
人種や性の差別が未だ繰り返され
貧富の格差の広がりが無視される
この2021年という、残酷で卑怯な
時代を東京五輪2020という祭典を
通して確信犯的に斬り込んだことを
はっきりと知らなければならない。
大﨑にとって障壁は1年間の延期で
突き付けられた保育と生活費だった。
■アスリートの前に人間である時代
この灰色の2021年の東京五輪では、
黒人が警官に殺害される米国社会を
痛烈に批判した女子ハンマー投げの
グウェン・ベリーが拳を突き上げ、
愛娘のゾーイを東京に連れて行くと
叫び、「子どもを含む家族の同伴を
禁じる」と規定したIOCと東京2020
組織員会に「乳児など幼い子どもが
いる選手に限って家族の同伴可」と
認めさせた女子マラソンの米国代表・
アリフィン・トゥリアムクらがいた。
イラン出身で、母国が認めていない
イスラエルに国籍を置く選手と戦う
事を禁じられた過去をもつ柔道選手、
サイード・モラエイも出場していた。
最早、オリンピックは、この地球に
巣くう差別や偏見、格差や不平等と
無縁ではいられないのだ。それは、
地球がかつてないほど多くの問題を
抱えてしまったのと同時に誰よりも
選手たちが、かつて抑圧されていた
政治的発言や一市民としての苦悩を
メッセージする場を手にする時代が
ようやく訪れたからに他ならない。
■目を覆う不人気の背後にあるもの(1)
大がかりな宣伝が記憶に残らぬまま
公開された、オリンピック公式映画
「東京2020オリンピックSIDE:A」。
舞台挨拶すら無視してスタートした
からなのか観客0人の劇場もあった
という不吉な噂を聞きつつ出かけた
109シネマズグランベリーパーク。
平日17:35開演の観客数は僅か
2名。人生で正に初めて経験する
他人ゼロ、夫婦貸切の鑑賞だった。
この作品の目を覆う不人気の理由に、
“呪われた五輪”を受け継ぐ影響を
挙げたくなるのはこの私も同じだ。
そこに河瀬監督自身に巻き起こった
数種のスキャンダルが拍車をかけた。
しかし、原因はそれだけだろうか。
海外の高評価に比べた評価の低さは
前述の如く「感動に震える」そして
「勇気をもらう」などの言葉が彩る
壁を乗り越えた勝者またはその壁に
阻まれた敗者たちの競技者としての
ヒーロー・ヒロイン物語への期待に
明らかに逆行した政治的・社会的な
本作のテーマにあったのではないか。
空手発祥の故郷・沖縄に誓う喜友名諒、
男子柔道・大野将平のデータ戦術など
金メダルを真っ直ぐに追う競技者の
姿やスケードボードやサーフィンを
通した純粋なスポーツスピリットの
描写が鮮やかに刻まれていたとしても。
■目を覆う不人気の背後にあるもの(2)
中野翠が「サンデー毎日」の中で
「自分の感情とか思いとかを、
そのまま、言葉の芸も工夫もなく
並べているかのよう」と嘆いた歌の
世界が受け容れられている時代に、
つまり、“分かりやすさ”の価値が
尊ばれる時代に「東京五輪2020」を
この様に描いた作品が「大コケ」と
揶揄されても、それしかなかったと
素直にあきらめざるを得ないのだ。
そしてそれは、政治に無関心な層を
生んでもいるという思いに至らせる。
■玉虫色は許されない東京五輪2020
そもそも虚飾にまみれたプレゼンに
始まる呪われた五輪の記録映画が、
何で「感動」満載の予定調和的な
演出で有終の美を迎えてよいのか。
「感動」「勇気」が飛び交うような
マスメディア的なおまとめによる
玉虫色の完結を目標に据え得るのか。
そんな憤りを晴らしてくれる作品が、
「非アスリートにスポットを当てた」
という、「SIDE:B」なのだろうか。
*
インターネットで語られている評の
多くが“躍動するアスリートの美”こそ
記録に残すべきと語る2022年にあって、
これほど変貌したアスリートの存在を、
それだけで済ませるのかと、問いたい。
それを一番理解するのは、テーマ曲を
つくった藤井風かもしれない。見事。