日本語の教室 (大野 晋)
(注:本稿は、2013年に初投稿したものの再録です)
シンプルなタイトルであるが故に、一体どんな議論がなされているのか気になって手に取ってみました。
著者の大野晋氏は、丸谷才一氏とも親交の深かった日本を代表する国語学者です。その日本語・日本語文法の大家が、日本語にまつわる素朴な質問に答えていくという形態の本です。
その一問一答の中から私の興味を惹いた箇所を、覚えとして書き留めておきます。
まずは、古典文法の「係り結び」に関すると問いから、「現代日本語の『ハ』と『ガ』の違い」について解説している部分です。
このルールの例示として著者が挙げている例文は、次のようなものです。
「本が部屋の隅にあった」、この場合は、「(未知の)気付かなかった本というものを部屋の隅に発見した」ということ。
「本は部屋の隅にあった」と言えば、「前から探していた(既知の)本が部屋の隅で発見された」というニュアンスになるというのです。
そして、この新・旧情報をつなぐ構文は、古文の時代から受け継がれた日本語の基本構造だと、著者は説いています。
本書で印象に残ったところをもうひとつ。「日本語における『漢語』の効用」を語っているくだりです。
「かな」では前後関係からしか判別し得ない「同音異義語」も、漢字の単語・熟語を使うと明瞭に区別し表現することができます。
この「漢文」を通しての表現力の拡大・論理的思考能力の醸成が、明治期以降の先進諸外国からの知識吸収に大いに貢献したとの考えです。
そして、この「漢文」は、古来からの「和文」と併存することにより、日本独特のハイブリッドな文化的潮流も作っていきました。
さて、本書において著者は、「日本語」という切り口から日本文化・日本社会の現状や将来についても語っています。
戦後の当用漢字・教育漢字の制定等に見られる「漢字教育」の弱体化が、著者がいう「日本人の言語能力の劣化」をもたらし、ひいては「事実・真実に対する誠意の欠如」や「虚偽や隠蔽の優先」にまで結びつくかといえば、少々我田引水的な立論のようにも感じますが、確かに、演繹的ではないにせよ、少なからぬ影響はあるだろうとは思いますね。
“カナモジカイ”“ROMAJIKAI”の主張はあまりに極端ですし、「当用漢字」「常用漢字」の制定における国語審議会(現在は「文化審議会国語分科会」)の答申内容も納得性には乏しいものがあります。
それに対する、著者の主張は明確です。
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