「善人」のやめ方 (ひろ さちや)
(注:本稿は、2012年に初投稿したものの再録です)
ちょっと気になったタイトルだったので手に取ってみました。ひろさちやさんの本は初めてです。
本書を読んで興味深かったのは、仏教の教えとサマセット・モームが著した小説の主題とを関連付けて自説を語っているくだりでした。
そこで取り上げられたモームの小説は「人間の絆」、その主人公はフィリップという青年です。
「無意味」というのは「無価値」ということではありません。
人は、まわりの人びと(世間)からよく見られたいと思いながら生きています。世間一般の明文化されていない判断基準を気にしています。これは特段日本においてのみ顕著な現象ではありません。
この「出世間」という考えは「自由」や「主体性」につながる概念です。
著者は、モームの短編「蟻とキリギリス」を引いてさらに持論を展開します。
この物語では、イソップの「アリとキリギリス(アリとセミ)」とは別の展開・結末が準備されています。また、この「アリとキリギリス」の物語には、種々の亜流があるようです。それらの主張は、必ずしも「勤勉なアリの生き方が正しい」というものではありません。
人の生き方として、何かが絶対的に「善い」「正しい」というものはないと著者は主張しています。
どんな宗教も、「絶対的な善人」はいないことを前提としています。真の善人は「神」であり「仏」のみです。したがって、人は善人になることはできない、善人に近づこうとしているだけだというのです。
そして、さらに「善人になりなさい」ではなく「自分が悪人(偽善者)であることを自覚しなさい」と説くのです。
この言葉も、モームからの引用(出典:サミング・アップ)です。「自分のことを棚に上げて・・・」ということですが、私も心しなくてはなりません。
さて、本書ですが、仏教とキリスト教、そしてモームの主張を引き比べて、「善人ぶるのはやめよう」「世間に縛られるな」「自由に生きよう」と説く著者の主張には、なかなか面白いものがありました。
今度はモームの作品も読んでみようと思います。