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小田島雄志のシェイクスピア遊学 (小田島 雄志)

(注:本稿は、2020年に初投稿したものの再録です。)

 ちょっと前に小田島雄志先生「ぼくは人生の観客です (私の履歴書)」を読んだのですが、少々欲求不満感が残ったので、改めて先生の「シェイクスピア」に関する本を読んでみたくなりました。

 1590年の「ヘンリー6世」から1613年の「ヘンリー8世」まで、第一期(1590-94)の修業時代、第二期(1594-1600) の成長時代、第三期(1601-8)の絶頂期、 第四期(1608-13)の晩年と分け、すべてのシェイクスピアの作品をスコープにいれた小田島流の解説が楽しいですね。

 やはり、最初に書き留めておく作品は「ロミオとジュリエット」です。
 小田島先生はこのシェイクスピアの代表的作品の魅力をこう記しています。

(p99より引用) 『ロミオとジュリエット』というと、ロマンティックな悲恋物語をイメージする人が多いけれど、実は、そのアクションだけでは制しきれないさまざまな要素をふくんでいる劇なのである。対照しあう各要素は、数例の引用にもあきらかなように、抒情的なところは思いきって抒情的に飛翔し、猥雑なところは思いきって猥雑に横行し、悲しいときは精いっぱい号泣し、おかしいときは腹の底から哄笑し、二人の悲恋はこの上なくロマンティックに歌いあげ、青春の群像はひたすらエネルギッシュに疾駆し、それぞれが劇的統一をうち破ってまで自己主張している。ぼくはそこに『ロミオとジュリエット』の爽快な魅力を感じとり、そのような世界を〈ごった煮の世界〉と呼びたいのである。

 次は、当然のごとく「ハムレット」
 小田島先生の説く “ハムレットとの接し方” です。

(p183より引用) 近代心理的リアリズム劇に慣らされた目でハムレットを見ようとすると、その言動の一つ一つに心理的動機を探りたくなり、四苦八苦することになる。だが、この時期のシェイクスピアが追究していたのは、ありあまる動機がありながら非行動という形の行動にとどまったり、理性的裏づけがないまま感情に駆られてわれを忘れて衝動的行動に出てしまったりする人間像であった。
 その点さえおさえておけば、「文学のモナ・リザ」と呼ばれたり、「スフィンクスが英語をしゃべったらハムレットのようにしゃべるだろう」と言われたりする、この謎に満ちた悲劇の主人公も、その謎のほとんどが氷解して、熱い血の流れている一個の人間として、ぼくたちに身近な存在となる。・・・
 その言動を、バラの香りのように直接感じとるのが、ハムレットにたいする正当な接しかただろう。

 そして、最後は「あとがき」で語られる “小田島先生にとってのシェイクスピアとは”。

(p248より引用) ぼくにとって、シェイクスピアは学問上でも舞台上でもいわば発見の連続としてあった。読むたびに見るたびに、人間とはこのように愛し、このように悲しみ、このように悩み、このように行動する存在であるのか、という発見を、驚きと喜びをもって胸中に刻みつけてくれるのである。

 この本の出版は1982年ですが、ちょうどこのころ(ほんの少し前)に私も教養学部で小田島先生の講義を履修していたんですね。もう40年以上前のこと、うすぼんやりとですが、先生の熱量の高い講義模様が思い出されます。



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