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子どもと話す 文学ってなに? (蜷川 泰司)

 「文学ってなに?」というタイトルに惹かれて読んでみました。

 私自身、いわゆる「文学」的な著作はほとんど読んでいないのですが、それは「文学」を「理解」することへの「自信のなさ」が影響しています。そういった私の「弱点」を埋めることができるのではとの期待もありました。

 ですが、やはり、それはどうも難しいようです。
 バフチンベンヤミンの思想も紹介されているのですが、ちょっとそのあたりは私には理解しづらいものでした。

(p142より引用) バフチンは伝統ある詩に比べて、ともすれば低い地位を与えられかねない近代の立役者、小説の持つ独自の豊かな局面を取り出した。一方、ベンヤミンは物語りとの比較の中で、小説のもたらす危機的な側面をえぐり出したんだと思う。

 本書では、いくつかのテーマを掲げて「私」と「少年」との会話が進められていきます。

 そのテーマのひとつ「商品としての文学」についての部分です。
 15世紀の半ば、グーテンベルクによる活版印刷の発明・普及が、急速な「文学の商品化」を推し進めました。

(p133より引用) 近代ヨーロッパにおける書物社会の成立拡大とともに、小説という分野も歴史の表舞台に姿を現わしたんだが、何よりもそれは書物に依存し、それは〈聞かれる〉ものではなくて、あくまでも〈読まれる〉べきものであって、作者も読者も求められるべきはどこまでも孤独な作業じゃないのか。

 さらに、情報化が進むとゆったりと流れる物語の時間が消えてゆきます。

(p140より引用) 情報の時間は瞬時にいくらでも寸断されて、いかにも取り留めなく、すべての前後というものが取り去られ、持ち去られては消え去っていく。私たちは時間の中でこれまでにないほど分裂をとげる。限りなく、情報のモザイクのような生活の鋳型にはめ込まれていく。

 また、他方、出版(publish)からpubulication、さらにpubulicとの連想によって、出版の公共性の議論になり、「公衆」に対する「政治」の圧力に話が進んでゆきます。
 このあたりのくだりは、何となく理解できた気がするのですが、だからといって「文学」に近づいたという実感はありません。

 本書の中には、幾人もの作家・評論家・哲学者が登場してくるのですが、恥ずかしいことに、私は、名前ぐらいしか知りません。もちろん、名前さえ知らない作家もいました。
 やはり、そういった人たちの著作に数多く当たらなければ、著者の議論にはついて行けないということでしょう。当然のことです。


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