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ぼちぼち結論 (養老 孟司)

個性

 著者の養老孟司氏は、「バカの壁」をはじめとして、最近とみに多くの著作が評判になっている解剖学者です。

 本書は、その著者が雑誌「中央公論」連載したエッセイ?をまとめたものです。雑誌の色でもあるのでしょうが、なかなかザックリと思い切った言い様が並んでいます。
 どうにも同意できないというようなものもあれば、なるほどという気付きを与えてくれるコメントもありました。

 たとえば、最近、教育問題等でむやみに?大事にされている「個性」について。

(p50より引用) 人間の場合、個性を発見するのは他人であって、本人ではない。本人にとって当たり前が、他人と異なっているとき、それを人は個性と呼ぶ。無理にやっているのは、個性ではない。そもそもロビンソン・クルーソーの個性に意味はない。島には他人がいないからである。
 それぞれの人に個性があるという考え方は、自己の改変が困難だという難点を生じる。自分を変えることはなんでもないが、個性尊重の世界では、それがむずかしくなる。

 本人が強いて意識しているような「個性」は、厄介なものです。
 養老氏によると、現代は、悪しき封建主義の時代=個性主義だというのです。

(p104より引用) 現代にだって、本人は意識していないであろうが、封建主義より極端な封建主義がある。それを個性主義と私は呼ぶ。人には個性があって、それは生まれつき決まっている。その個性こそがその人の価値である。そう考える。それなら人の価値はすべて生まれつき決まっているわけで、そういう考え方こそ、江戸時代より極端な封建主義というしかないではないか。

 その他、今はやりの情報化社会に関してのコメントもあります。梅田望夫氏の「ウェブ進化論」で紹介された将棋の羽生善治氏にかかるくだりを引用して、こう語ります。

(p111より引用) 「彼は、言語化不可能な世界にこそ、人間ならではの可能性を見出そうとしている」。
 わかってるじゃないの。・・・なぜなら言語化できなければ、さらに「情報化できなければ」、検索なんてないからである。つまり検索以前に世界がある。それは「まだ情報化されていない」世界のことである。

 「検索以前の世界」があること、そして、そういう未踏破の世界のなかで「情報化されていない事象を情報化する」思索の大事さを訴えています。

養老氏のブツブツ

 養老氏のブツブツは、まだまだ続きます。
 どのブツブツも、かなり過激な言いぶりです。意図的に強調している面もあるのでしょうが、氏の本気度が、結構そのままストレートに表れているような気もします。

 ものごとをバクっと掴み、ザックリと割り切った評価を下すことはなかなかできないものですが、養老氏ほどのキャリアを積むと、それはそれ自然体で踏み出せるのでしょう。
 そういうザックリ系のコメントのなかで、私としても、なるほどと首肯できたものを2・3ご紹介します。

 まずは、「自由」と「規制」の相対的な関係について。

(p72より引用) 自由が正しいわけではない。規制が正しいわけでもない。規制によって自由の、自由によって規制の、メリットが生じただけである。
 その根本には、なにがあるか。秩序はかならずそれだけの無秩序を生み出す。熱力学の第二法則といいかえてもいいであろう。・・・規制は等量の自由を生み出し、自由は等量の規制を発生させる。人間はそれ以上のこともそれ以下も、おそらくできない。論理的にできないのである。

 また、「誤解」と「正義」について。

(p77より引用) 誤解で損をするのは、誤解している本人である。誤解された方ではない。相手を間違って見れば、間違えた方が損をする。山で道を間違えれば、遭難するのは本人である。その意味で私は「正義」を信じている。正義という抽象的なものがあるのではない。当たり前を認めなければ自分が害を受けるだけである。その当たり前を正義と呼ぶ。

 最後は、よく言われることですが、「客観を装うデータの不信」についてです。

(p142より引用) そもそも私は、データに基づいた議論を信用しない。現代人が逆の常識を持っているのは知っている。にもかかわらず、私は逆を信じている。データは考えていることを確認する材料に過ぎないのであって、じつは考えのほうが優先するのである。・・・データはつねに本人が持っている仮説を支持するものとして使われる。だからインチキが発生しやすいのである。或る目的に沿ってデータを出したら、強いバイアスがかかるに決まっている。

 まったくニュートラルに収集されたデータから何らかの結論を導き出すことは、現実的には極めて稀です。
 仮に最初はそうでないにしても、ある段階からは、仮説に沿ったデータの取捨選択が始まるのが常です。

(p146より引用) 考える労を惜しむ人が悪しきデータ主義に陥る。データを取るには手間ひまがいるが、考えるのはタダである。だから本当の能率主義は考えることにある。

 中途半端なデータ信仰は危険です。
 それよりも、養老氏は、「自分の頭で考え切ること」を薦めるのです。


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