羊の歌 ‐わが回想‐ (加藤 周一)
中学校まで
加藤周一氏の著作は、「吉田松陰と現代」をはじめとして何冊か読んでいます。
本書は、先に読んだ鶴見良行氏による「バナナと日本人」と同様に、岩波新書創刊70年記念の企画「私のすすめる岩波新書」というコーナーで紹介されていたので手にとったものです。
内容は、加藤氏自らが記した半生の記録で、幼い頃から終戦期までを対象としていますが、それ以降は、続編も出ているようです。
体裁は1テーマ10ページ程度のエッセイ集という趣きで、興味深いエピソードが満載ですが、その中で特に私が関心を持った部分を紹介します。
まずは、加藤氏の「評論家」としての萌芽が感じられるフレーズです。
(p25より引用) 私は、すべての宴会なるものに対して私自身がいつも他処者であるほかはないのではなかろうか、ということに気がついた。その考えは、後悔でも、口惜しさでも、悲しみでもなかったが、一種の決断を迫るものにはちがいなかった。
幼い頃の田舎での集まりの記憶と、後のメキシコ・シティでの光景とが重なって、自分が「観察者」であることを意識した瞬間があったようです。
もうひとつ、少年時代、病気がちだったこともあり、周囲との直接の接触の機会も少なかったようです。その中で加藤少年は、読書を通じて純粋培養的な思想を育みました。
(p44より引用) 私は好奇心に溢れていて、しかも周囲の世界とは何らの交渉ももっていなかった。世界は変えられるためではなく、まさに解釈されるためにのみ、そこにあった。・・・その後ながく私は、世界が解釈することのできるものだということ、世界の構造には秩序があるということを、決して疑ったことがなかった。
幼稚園にも通いましたが、そこでも馴染めなかったといいます。そして小学校でも同じでした。
(p48より引用) 小学校の校庭で遊びに加わることを望まなかった私は、児戯のばかばかしさに閉口していたのである。しかし子供は子供の役を演じるほかはない。したがってばかばかしさは、自分自身にも向けられざるをえないだろう。それは自己嫌悪の一歩手まえである。-ということを、理解していたのは、むろん当人ではなく、おそらく父でさえもなく、ただひとりの母親だけであった。
このころ、吉野源三郎氏の名著「君たちはどう生きるか」の主人公コペルくんと同じような体験も描かれていて興味深いものがありました。
そして、東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)時代、芥川龍之介を耽読しました。そこで受けた「芥川の一撃」です。
(p98より引用) 「軍人は小児に似ている・・・」と芥川が書いたのは、1920年代である。・・・学校でも、家庭でも、世間でも、それまで神聖とされていた価値のすべてが、眼のまえで、芥川の一撃のものに忽ち崩れおちた。それまでの英雄はただの人間に変り、愛国心は利己主義に、絶対服従は無責任に、美徳は臆病か無知に変った。私は同じ社会現象に、新聞や中学校や世間の全体がほどこしていた解釈とは、全く反対の解釈をほどこすことができるという可能性に、眼をみはり、よろこびのあまりほとんど手の舞い足の踏むところを知らなかった。
高等学校から
1936(昭和11)年、二・二六事件が起こった年の4月、加藤氏は第一高等学校に進学しました。理科の学生でしたが、文芸に対する関心は益々高まります。
加藤氏は、当時すでに文壇にて一定の地位を築いていた横光利一氏を講演に招きました。講演の後、横光氏を囲んでの有志の集まりがあり、そこで、氏と学生との間で激しい議論が交わされたそうです。学生たちは自己増殖的に興奮していきました。
(p158より引用) そのとき横光氏には、徒手空拳、拠るべき堡塁が、文壇の名声と、権力のつくりだした時流以外には何もなかった。信念-それにちかいものはあったかもしれない。しかしほんとうに信じていることと、信じていると信じようとしていることとは、ちがうのであり、誰よりも横光氏自身がその違いを感じていたにちがいない。
後になっても、横光氏はその時の議論を気にやんでいたといいます。後年、それを伝え聞いた加藤氏は、自らの未熟さに自責の念を感じていたようです。
(p159より引用) 無名の学生が、あれほど高名な「大家」に、何らかの傷手をあたえ得るだろうとは、想像もしていなかったのである。傷手をあたえることができたとすれば、それは相手が傷手をあたえる必要のない人間だったからであろう。・・・傷手をあたえる必要のある人間に傷手をあたえることは、私たちにはできなかった。
横光利一氏は駒場に招かれた客であった。ヒトラー・ユーゲントの一隊は、招かれざる客であった。私たちはみずから招いた客と激論したが、招かれざる客には白眼を以て応じ、相手にもしなかった。
本書の最終章は、「八月一五日」。
この日は、加藤氏の人生の中でも特別の日でした。
(p221より引用) 私にとっての焼け跡は、単に東京の建物の焼き払われたあとではなく、東京のすべての嘘とごまかし、時代錯誤と誇大妄想が、焼き払われたあとでもあった。・・・しかしもはや、嘘も、にせものもない世界-広い夕焼けの空は、ほんとうの空であり、瓦礫の間にのびた夏草はほんとうの夏草である。ほんとうのものは、たとえ焼け跡であっても、嘘でかためた宮殿より、美しいだろう。私はそのとき希望にあふれていた。
その他、高等学校時代の追想の中で、微笑ましく印象的だったのは、真面目な学生でなかった著者たちに対する独作文のペツォルト教授の怒りの台詞です。
(p126より引用) 老人は英独日本語を混ぜて「おまえたちは偉い人ではない」といった、《You are nicht erai hito! 》
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