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日本問答 (田中 優子・松岡 正剛)

(注:本稿は、2021年に初投稿したものの再録です。)

 変わったタイトルだったので目に付きました。

 松岡正剛さんも著者のひとりということで挑戦することにしました。対談の相方は社会学者(法政大学総長(注:当時))田中優子さんです。

 まさにお二人ならではのとても面白そうなテーマの対談だったのですが、私にとってはちょっと荷が重すぎました。著者と読者の持っている基本的な知的素養の量と質があまりにも違い過ぎるので、予想どおりお二人の論理の道程や発想の跳躍には全くついていくことはできませんでした。
 が、それでも気になったところを覚えとして少々書き留めておきます。

 まず、第一章「折りたたむ日本」の中での田中さんが指摘する「鎖国時代」の位置づけについて。

(p13より引用) 徳川時代は鎖国で閉じていたというのはまちがいで、じつは内のなかに外を入れ込み、内を広げようとしていた時代です。浮世絵もまさにそういうなかで生まれた。だからこそ浮世絵の珍しさが西洋にまで広がった。グローバル化とは、江戸時代にあっては、世界をいったん呑み込んで自らの変化によって世界に対応することでした。

 これに関連して、第四章「日本の治め方」の中で、田中さんは江戸時代には「鎖国」という概念自体なかったと述べています。

(p151より引用) 田中 そもそも「鎖国」という言葉、つまり概念じたいが江戸時代にはなかったと考えています。法律用語としても存在していません。一六三三年に奉書船以外の日本船の渡航と帰国が禁じられますが、長崎にのみ発布された。しかもその年にはオランダ商館長の江戸参府がはじまり、幕府巡察使に対するアイヌのウイマム(御目見得)もはじまりますから、渡航禁止令は同時 に新しい外交の幕開けでもあったんです。

 この章ではもうひとつ。
 “日本らしい「治め方」” に関して、松岡さんとのやり取りの中で田中さんが面白い指摘をしています。

(p158より引用) 松岡 西郷隆盛などはそういうことがよくわかっていて、かなり大きな日本的混乱のリスクを呑み込んで治めたんじゃないかと思う。西南戦争に巻き込まれたときだって、大久保利通とのあいだで「オレはお前に討たれてやる。その代わりお前は日本に治まりをつけろ」といった気持ちがあったんじゃないか。敵どうしになっても、そういう超越的な「和」を互いに交わしていたんじゃないかと思います。
 それにしても、主語がはっきりしない、主体もはっきりしないのになぜそれで治まるのか、それで「和する」ことになるのか。権威も責任もはっきりしないと、ふつうならアナーキーで無秩序になってしまいそうなのに、なぜそうならずに済むのか。
田中 アナーキーなほうが治まるんです。・・・『勧進帳』がそうですね。関守の富樫は弁慶が義経を隠していると知っていながら、追及するふりをして逃す。本当はこれ、まったく治まっていないのだけれど、誰もが納得しまう。秩序のなかに収拾するのではなく、その外にアナーキーに逃して治まるわけです。

 そしてもうひとつ、第三章「面影の手法」の中での「江戸時代の教育」に関する田中さんと松岡さんのやり取り。

(p106より引用) 田中 ・・・江戸時代の教育というのは、人間関係を成立させるための礼儀を身につけさせることだった。
 松岡 社会の礼儀や世すぎや身すぎがストレートに教育になっていた。でもそれを道徳とはとらえていなかった。

 寺子屋とか丁稚奉公とかの位置づけの説明ですが、ここでの教育内容は「道徳」のような精神教育ではなく、実用的な「コミュニケーション能力」だったというのです。これも私にとっては、新たな気づきでした。

 さて、本書を読み通しての感想ですが、特に私の興味を惹いたのは、第八章「日本の来し方・行く末」の中でお二方の生い立ちを語りあったくだりでした。
 お二人とも私よりひとつふたつ上の世代なのですが、その若かりし頃の世情感は何となく肌感覚で理解できて、お二人の問題意識の原点らしき一端にほんの僅かですが触れたような感じがしました。



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